※独歩視点


先生が出て行ってしばらく。ベッドの横にある簡易的なパイプ椅子に腰かけた一二三もすっかり大人しくなってぼんやり外を眺めている。無駄だ。そもそもどうしてこうなった。本来なら普通に仕事をしている時間帯。突然の休暇にきっとあのハゲ課長もブツブツ文句を言っているに違いない。そして出社すればグチグチ嫌味を言ってくるのだろう。まぁ、いつもの事だし、気にせず過ごせばいい。


「………」

「ちょ、独歩」


いつものように帰宅してそのままリビングに倒れ込んで寝ていただけなのに、目を覚ませば帰宅した一二三と何故だか一緒に寂雷先生も居て。あれよあれよという間に入院、検査だ。終いには御厨 コウスケという謎の人物の名前を一二三に連呼され訳が分からないまま時間が過ぎていく。それについ、耐え切れなくなってベッドから起き上がり掛けて置いたシャツと上着に袖を通す。


「もうここに居ても意味がないだろ。先生に挨拶して帰る」


検査結果も問題ない、って先生言ってたし。いつもの仕事疲れで倒れていただけだ。それを大袈裟な。第一に本人が何ともないと言っているのにどうして皆信じてくれないのだろうか。どうして、


「独歩…本当に覚えてないの?」


一二三のか細い声が病室に響いた。帰る為の準備をする手を一瞬だけ止めて、はあと息を吐く。何度目の問いかけだろうか。いや、数えきれないほどに同じ質問攻めにあっている。耳に胼胝が出来そうだ。幾ら一二三でも、もう我慢の限界だった。


「仮に俺が、そのコウスケってヤツの事を本当に忘れてるとして…それがなんだ」

「え、」

「俺の記憶を消したのはそのコウスケ本人なんだろ?」

「ま、まだわかんねえって!」

「本人だとしたら、俺に忘れて欲しかったんだろ。なら俺は別に思い出そうとは思わない。ソイツにとって俺はその程度のヤツだったってだけだ」

「ちが、」

「違くないだろ!もういい加減にしてくれ」


問いかけられるたびに胸の奥がモヤモヤと気持ち悪い気がした。けど気のせいだと思った。だって、何度思い出そうとしてもそこにその名前を持つ人物は俺の中に存在していないのだから。幾ら一二三に一緒にゲームしただろとか料理作って貰ったろ?って説明されても思い出すのは一二三が一人で楽しそうにゲームする姿と、同じく一二三がキッチンに立っている姿だけだ。
仮に一二三や先生の言う通り俺の記憶を消されたというのなら、消した本人にそうする理由があったんだろう。俺なんかが介入したって意味がないぐらいの理由が。


「きゃ、」

「あ、」

「ひい!!!」


最早一二三に止められようが関係なかった。病室を出ようとしてベッド周りのカーテンを開け、ドアに向かっていた時だった。スーッと静かに開いたバリアフリーの扉の向こうから入ってきた看護婦さんとぶつかる。お互い前を見ていなかった為に、ドンっとぶつかり看護婦さんが抱えていたらしき資料が床に散らばる。突如現れた女性に一二三は悲鳴をあげ、ベッドの影に隠れてしまった。


「ごめんなさい、声もかけずに」

「あ…いえ、こちらこそ前見てなくて…スミマセン」


ノックはしたんですけど、と続ける看護婦さんが床に散らばった資料を拾い始めたのを見て俺も慌てて手伝う。お互い怪我が無くて良かった。そんな風に思っていた時だった。不意に看護婦さんの手とは別の細くて白い指先が自分が拾おうとした資料を手に取った…そうに見えた。が、実際は資料は床に落ちたまま。チクリと脳裏が痛んだ気がして思わず手を止める。


「…ん?」

「どうかしました?」

「いえ…別に…」


疲れてるのか?幻覚が見えているのか?何度も目を瞬きさせ、再び資料を拾おうと手を伸ばせば今度は微かに聞き覚えの無い筈の声が降ってくる。


「ほい」


目の前に差し出される資料。受け取ろうとしている自分が居て、意識を呼び戻す。いやいや、これは看護婦さんが持ってきたものだ。自分のモノじゃない。それでも素直に受け取ろうとした自分に変な違和感を覚えながらバッと顔を上げる。


「……あ、れ?」


そこには散らばった資料を纏めている看護婦さんの姿しかない。資料を差し出したあの手も声の主もそこには居ない。それでも確かにその感覚は覚えている。これは、今じゃない。もっと、前の、


「足元、気を付けてくださいね。"観音坂さん"」


ふわりと笑みを含んだ声が名を呼んだ。資料を纏め上げ、立ち上がった看護婦さんとは打って変わって膝を着いたまま固まっている俺を不安に思ったのか、ベッドの影から「ど、どっ、ぽ…?」と控えめな一二三の声がする。それでも俺はすぐに動けなかった。


「(誰、だ…?)」


ドクリ、ドクリと酷く心臓が煩い。微かな頭の痛みと共に過ぎる身に覚えのない光景に体が上手く動かない。


「お、独歩さん。お帰んなさい」


これは、自宅の玄関。仕事が終わりクタクタになって帰宅した時、不意に玄関に顔を覗かせたのは一二三じゃない、誰か。未だ幼さの残るその顔に酷く安堵している自分が居る。なんだ、これは。なんなんだ。これは。


「はい。また、夕飯作りにお邪魔します」


とても大人しくて、謙虚で、礼儀正しくて。いつも一二三が用意できない時とか不定期だったけど夕飯を作りに来て、くれて、あれ?誰の事を思い出しているんだ?俺は。
控えめに笑ったその可愛らしい顔の彼が、何の躊躇もなく深夜の街の中へと消えていく。その小さな背中をいつも見送るしかできない俺がそこにただ、立っている。


「大丈夫ですか?」

「…え…ええ。大丈夫、です…」


ふわり、ふわりと意識が朦朧としている感覚。床に膝を着いたまま動かない俺を心配してか看護婦さんが声をかけてくれてようやく今に意識を留めているような感じだ。フルフルと頭を振って片手で額を抑える。頭が、痛い。


「おや、これはどういう状況かな?」

「先生」


スーッと再び病室の扉が開いて、優しい先生の声がする。看護婦さんが状況を説明している声がするが少し遠い。心配させてはいけないと思うのだが大丈夫です、と立ち上がれない。すると不意に先生が俺に静かに歩み寄ってきて、そっと肩に手を置いて顔を覗き込んできた。


「どうしたんだい?独歩くん。どこか痛むのかい?」

「え?いえ…別に俺は、どこも…あれ?」

「ふむ…」


先生が一つ声を零し看護婦さんから資料を受け取って、看護婦さんに業務に戻るよう指示を出す。失礼します、と女性が病室から出ていったのを確認するや否やベッドの影に隠れていた一二三がそろそろと出てきて、俺の傍に駆け寄ってくる。そして先生と同じように俺の顔を覗き込んで一言、


「独歩、泣いてんの?」


え、と声も出ない。その一二三の声と共にツーッと頬を何かが伝う感覚がして、次の瞬間にはポタリと床に雫が一つ落ちた。どこも怪我などしていない。脳裏の痛みも些細なもので泣くほどのものじゃない。なのに、どうしてだろう。どうして俺は泣いているんだ。


「こうするしかなかった。こうするしか…なかったの…」


違う。泣いているのは俺じゃない。霞む視界の向こうでいつも笑顔を浮かべていたあの子が俺に縋りつくようにして何度もごめんなさいと謝っている。何度も、何度も、何度も。


「誰かが…誰かが、俺に、謝ってるんだ…」


静かに離れていく体温。嗚呼、行かないでくれ。どうして、どうして。残された疑問は酷く曖昧になっていく。痛む脳裏、冷たい、雨の感覚。俺は、あの子を知っている。嗚呼、知っている。知っている筈なのだ。


「先生!もしかして!」

「ああ…これは…」


不安気な一二三の声と、俺の肩に触れる先生の手に少しだけ力が籠る。指先が震えて力が入らない。記憶が、酷く入り混じってどれが本当のものなのか曖昧だ。ただ、幾つかの記憶に確かに存在しているその面影をどうにかして捕まえようとしている自分が居る。放って置いても良い筈なのにそれが出来ないのにはそれなりの理由があるのだ。例え、覚えていなくても。


「…先生、俺、もしかして、とても大事な事を忘れているんですか?」


聞かずにはいられなかった。俺の脳裏で、俺に笑いかけてくれて、優しくしてくれたあの子がどうして泣いているのか。あの子の事をどうして自分は忘れているのか。ほんの数時間前まで信じていなかったその存在の事を嘘のように知りたくてしょうがない。否、思い出さねばならない。そう思った。
縋るように先生を見る。答えを聞きたかった。きっと答えを持っているのは先生だ。教えてくださいと肩に添えられた手を掴んだその時、先生の携帯が鳴った。先生が着信画面を見て少しだけ険しい顔をして一言静かに失礼、と断りを入れて電話に出る。


「はい、神宮寺です。どうしました一郎く―…え、」


一郎くん…イケブクロの山田一郎からだろうか。先生が問いかけるより前に、少し驚いた様子の先生の声が聞こえた。うん、うん、と向こうの状況を聞いているのかいつになく真剣な表情で、でも声色は酷く落ち着いていて冷静だ。酷く安堵した。


「分かりました。とりあえず落ち着いて、体に異変は?体調とか…そうですか。ええ、恐らく記憶だけ消したのでしょう。ええ、ええ………。これは、丁度いいタイミング…と言ってはあれですが…。一郎くん、通話をスピーカーにしても?」


記憶を消された、その一言が酷く胸に刺さる。俺以外にも記憶を失った、人が?一二三に背中を撫でて貰いながらゆっくりと立ち上がり傍にあったパイプ椅子に腰かける。電話の向こうの山田一郎から了承を得たのか先生が自身の携帯の通話をスピーカーに切り替え、テーブルに置いた。
先生は俺の事と一二三の事を伝えたのか、電話の向こうで「どうも山田一郎っす」と挨拶が聞こえたので、こちらも「どうも」と返しておいた。先生の話によると、どうやら山田一郎の弟である山田二郎と山田三郎も見事なまでにとある記憶だけを消されてしまったらしく先生に相談の電話を入れてきた、とのことだった。


「どうやら、話す時が来てしまったようですね」

「へ?何の話?」

「本当は、あの子自身から皆さんに打ち明けてくれれば…と思っていたのですが」

「≪寂雷先生?≫」

「彼について……いえ、もう偽る必要もないでしょう」


ふう、と息を吐いた先生が自身の回転いすに腰を下ろしながら静かに目を伏せる。話すべき相手は揃っている。といつになく酷く静かで真剣そのものの言葉に思わず息を飲んでしまうほどだ。綺麗に閉じた先生の瞼がまたゆっくりと開かれ、また一つ大きく息をして自分たちを射抜くように見つめた。


「"彼女"の事について…そして今起きている出来事、全てお話しします」


ガツンと何か重いもので頭を叩かれたような鈍い痛み。え?え?と混乱してる一二三の声と、テーブルの上に置かれたままの携帯の向こうで一郎くんの抑え込もうとした驚いた小さな声。やはり先生は真実を知っている。しかし此処まで先生が胸の奥で秘めていた話ともなると、聞く側も覚悟しなければならない事を一瞬の内に悟った。





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