※寂雷先生視点


手渡されたカルテに目を落としながら小さく吐息する。先ほど出たばかりの検査結果の数字の羅列の中で特に異常値は見つからない。


「(人体に影響は無し…か。やはり彼女のスキルは―…)」

「せんせ?」


真剣に見入ってしまっていたらしい私を少し不安げに呼ぶ声が聞こえて、ふと顔を上げる。こちらを見つめる不安げな独歩くんと困り顔の一二三くんと目が合った。口の端を微かに上げながら2人の不安を打ち消すように静かに、出来る限り冷静に声を発する。


「熱も無いし、検査結果もこれといって問題は見られないね」

「よかった……」


緊急で手配した病院の一室。個室のベッドの上で私の診察結果に安堵の声を漏らす独歩くん。彼の頭の中では既に「これで会社に行ける」と切り替わっているのだろうが、そうもいかない。幾ら数値に異常がなくとも問題は―…


「ぜんっぜん良くねえっての!」


納得のいかない様子の一二三くんが声を荒げる。まぁ、当然と言えば当然だ。何せ、独歩くんに関わっている大きな問題は身体に影響の出るものじゃない。もっとも難しい、内側の世界。


「先生!どういうことなんすか?!」

「こら、一二三!病院なんだから静かにしろって…」

「だってコウスケの事、一つも思い出せねえってどう考えても可笑しいっしょ?!」

「あのな…!その話はもういいだろ?!」

「良くない!!!!」


あんだけ仲良かったじゃんか!!と声を荒げ続ける一二三くんに対し、独歩くんは相変わらず冷静で何の話だかさっぱり分からないと言った様子だった。私が説明を添えても御厨くんの事を欠片も思い出さないようだし、もはやこれは一種の記憶喪失…そして、これが彼女のスキルと見て間違いないだろう。


「先生!先生なら何か知ってんでしょ?!コウスケの事!!」


今にも泣きだしそうな、それでも真っ直ぐな瞳を向けてくる一二三くんはきっと何かよく分からないけれど察しているのだと思った。どうして独歩くんが彼女の記憶だけを失っているのか、どうしてそうなったのか、疑問は山ほどあるにしろ一二三くんはその答えを私が持っていると分かっているのだろう。嗚呼、御厨くん。此処まで、ですね。ついのついに踏み入ってしまったその領域を私は見過ごすわけにはいかないようです。


「彼は―…」

「神宮寺先生、今宜しいでしょうか?」


軽いノックの音と共に現れた一人の看護婦が顔を覗かせる。身を乗り出すようにこちらに顔を近づけていた一二三くんが一瞬にしてヒィッ!!と小さな悲鳴を上げながら飛びのき、独歩くんの後ろに隠れた。その様子に看護婦は驚いたようだが、私がどうしたんだい?と問いかけると用件を思い出したように声を控えながら耳打ちしてくる。


「お話し中すみません。緊急でお電話が」

「誰からだい?」

「それが―…」


看護婦の言葉を聞き、思わず椅子から立ち上がる。一二三くんと独歩くんに席を外すことへの謝罪と少しばかり待っているよう告げて即座に部屋を後にする。2人の前で会話できる相手ではなかったからだ。一人、空いている自身の控え室に入り外線と繋がっているその受話器を静かに取った。


「はい」

「≪シンジュクディビジョン代表 麻天狼リーダー、神宮寺寂雷≫」


忘れる訳もない。いつ振りに聞いたのかその声色は相変わらずだった。看護婦が血相を変えて呼び出してきたのかが分かるその相手に、冷静にいつも通りにゆっくりと口を開く。怒らせてはいけない相手―…総理補佐官および警視庁警視総監、行政監察局局長など様々な役職を担う、"勘解由小路 無花果"その人だ。


「これはこれは…」

「≪挨拶は良い。用件のみ伝える。貴様はそれに正直に答えれば良い≫」

「はい。どのような事でしょうか」


いつも通り冷静に、そして一言一言を丁寧に。静かな電話口の向こうで彼女が息を吸う微かな音が聞こえた。


「≪御厨 コウスケを知っているな?≫」


大方予想は出来ていた。あとは時間の問題だろうと思っていた所だったのだが、思っていたよりも中王区の動きが早い。先ほどの情報がもう既に勘解由小路無花果の手元にあると言う事だ。


「ええ、私の受け持っている患者の一人ですね」

「≪…成程。そういう接点か。まあいい。今現在、御厨 コウスケは何処にいる?≫」


やはりそうだったか。私と彼女の接触、関係があると分かって問いかけている。匿うなら私の元だろう、と予想していたのか少しだけ圧力を感じる口調だった。しかし嘘を吐く必要もない。静かに口を開く。


「残念ですが、私は存じ上げません」

「≪そうか…≫」

「お力になれず真に申し訳ございません」

「≪フン、ではシンジュクディビジョンで騒ぎがあったのは知っているか?≫」

「それは……帳兄弟が暴れていた、という件でしょうか?」

「≪そうだ≫」


少しだけ探りを入れるように尚且つ怪しまれないように振る舞うのはとても難しい。しかし冷静に落ち着きながら会話を交わせば、何も怯えることも臆することもない。いつぞやの外道とは違い、話の通じる相手だ。


「≪最近巷で騒ぎになっている通称"違法マイク狩りの重要参考人" 及び…貴様も知っているであろう"数年前に中王区で起きた事件の容疑者"として御厨 コウスケを追っている。その御厨 コウスケが先日帳兄弟ともみ合っている姿が目撃された。その後、貴様のチームの観音坂独歩との接触もこちらは確認済みだが……隠し立てするなら、我々は容赦しない≫」


最後の警告だ、とばかりに口調がかなり強くなっていく。そんな中でふと中王区が新たに"あの事件"に目を付けている事に驚いた。彼女の名が世間に浮上したことにより、中王区の中で何かが動き出している。それは確実だ。


「ええ。確かにその時、うちの観音坂くんは御厨 コウスケと接触があったようです。しかし我々が観音坂くんの元に駆けつけた際、既に彼は居ませんでした。そして、マイク狩りの被害に遭った方々の容態を知っているならば…独歩くんがどういう状態かお分かりの筈では?」

「≪…成程。消されたか≫」

「はい。何一つ、残さずに」


世間で騒がれている違法マイク狩り。違法マイクで騒いでいる輩を無差別に襲い、マイクを奪い去っていくという事件。その事件が一向に解決へと向かわない理由の一つが、マイクを奪われた本人が記憶を無くしている事だ。襲われたことは愚か、自身が違法マイクを持っていたこと自体を忘れている者も居るという。
そこから考慮して導き出されることは一つ。重要参考人とはよく言ったものだ。きっと彼女は独歩くんの記憶を意図的に消した。望むなら、帳兄弟と争っていたことやその付近の記憶だけを消せば済んだ話だった。それでも彼女は独歩くんの中から自分という存在自体を消した。これは、この理由は一つしかない。


「≪嘘ではないな?≫」

「誓って嘘ではありません」


今、現在進行中だが中王区からの探りが独歩くんの元へ来た時に彼を少しでも巻き込まないように。少しでも関わらないようにという彼女の願いであり、望みだ。


「≪ならば貴様に用はない。何か御厨 コウスケに関して分かり次第報告しろ≫」

「…はい」


勘解由小路無花果もその理由で素直に納得したようだった。まんまと彼女の思惑通りと言う事だ。記憶が無ければ話したくても話せない。マイク狩り、という前例があったからこそ中王区を説得できる唯一の方法だと考えたのだろう。考えるだけで、酷く、哀しい。


「≪何か言いたいことでもあるのか≫」


ほんの少しだけ歯切れの悪い返事を返してしまったからなのか、電話越しに少し不満げな勘解由小路無花果の声がした。中王区もあの事件に関して調べ始めているなら尚の事、もっと深く掘り下げる必要がある。ならば、と思った時には既に口が開いていた。


「数年前の、あの事件…今一度調べ直された方が良いかと」

「≪何?≫」

「中王区の為にも―…いえ、"彼女たちの為"にも」


思わず受話器を握る手に力が籠る。伏せた瞼の裏に思い描くのは、初めて彼女が此処に運び込まれてきたあの日の夜の事。酷く、寒い冬の夜だった。


「≪…彼女たちだと?一体貴様は何のことを言っている?あの事件に何か裏でもあるというのか?≫」

「私から話せる内容は真実でない可能性もございますので…これ以上の発言は控えさせていただきます」

「≪…嘘偽りの可能性がある話をしているというのか?この私に≫」

「無礼であることは重々承知しております。ですが、真実の可能性があるのも然り。何が真実で何が虚実なのかはっきりさせるべきかと」

「≪……フン。癪に障るが、まぁ良い。今は貴様の戯言に構っている暇はない≫」


少し間を開けて吐息した勘解由小路無花果は静かにそう言い残して電話を切った。通話切れの音を受話器越しに聞きながらそっとこちらも受話器を置いた。やはり勘解由小路無花果は…いや、中王区自体があの事件の真実に辿り着いていない様子だった。どこかで妨害されている可能性もあるし、御厨くんを狙って帳兄弟が動いているのも気に掛かる。あの事件に関しては、中王区でもしっかり暴いてもらわねば意味が無い。でなければ、この事件は、終わらない。

一度深呼吸をし、自身の携帯を取り出す。アドレス帳に載ったまま未だ消せないその番号を選び電話をかける。何コールもしない内に通話が始まった。


「…左馬刻くん?神宮寺だけれど……今大丈夫かい?話したいことがあるのだけれど」


おう、といつもの彼の落ち着いた声が聞こえて少しだけ安心する。彼女に関する秘密を共有している唯一の相手である彼―…青棺 左馬刻くんが電話越しに煙草を吹かしている音を聞きながら、言葉を紡いだ。





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