心臓が痛い。こんな痛みはあの時以来だ。寒い。冷たい。真冬ではなかったのがせめてもの救いか。雨はまだ止まない。シンジュクから逃げ出すように電車に飛び乗って、着いた1つの駅。いつも利用してるコインロッカーから着替えの詰まったカバンだけを引っ張り出し終電の時刻が近づくこの駅の入り口付近で降り続く雨を仰いでただただ立ち尽くしている状況だ。
すぐにネットカフェでもホテルでも駆け込むべきなのだろうが、如何せん体が動かない。なんだかボーっとしてしまって体の怠さが抜けない。最近してきた無理が今頃になって襲い掛かってきている。この短期間で色々な事があり過ぎたのだ。事を急いたのは認めるが、まさかこんなに自分が駆け抜けていたとは思いもしなかった。まず自分でも驚くぐらい心の整理がつかない。頭が、うまく回らない。考えていたことがすべてひっくり返ってしまった状態でどこから持ち直せばいいのか分からなくなり始めていた。


「お、コウスケじゃねぇか」


不意に飛んでくる声に小さく肩を震わせる。ぼんやりと雨を眺めていた顔をゆっくりと声の方へと向ける。そこに居たのは見覚えのある青年―…有栖川帝統だった。嗚呼、そういえば彼はよくこの辺をウロウロしてるんだっけ?なんて遠く考えながら彼を見つめていれば煙草を咥えながらいつものケロッとした表情のまま歩み寄ってくる。


「おいおい、どうした?ひでえツラじゃねぇか」


いつもならウルセエとかほっとけとか色々返せるのだが生憎今日は言い返せる元気も、声も何も持ち合わせていない。変声機が壊れてしまった以上、直るまで下手に喋ればまた更にこちらの身勝手に巻き込んでしまうことは明らかだ。


「なんだなんだ?珍しいな?賭けでも負けたか?」


未だに靄がかかったような脳内を必死に働かせて、どうにか彼の問いかけに対しフルフルと小さく首を横に振ってとりあえず否定の意を示す。頼むから放って置いて欲しい。声を発することなく視線をずらして少し距離を取ろうと重心を後方にかける。此処から、逃げなければ。
気まずい雰囲気の中、何も言い返さないこちらに帝統は少しオロオロとして「大丈夫かよ」とか「なぁ」とか色々続けて言葉を投げかけてくるが段々と声が小さくなっていく。口数が減り、最終的に何も言わなくなった。それでも視線はバッチリと感じていてすぐ傍に立っているのは分かった。
一言も発することなく、唐突に走り出せばきっと彼も追っては来ないだろうし反応も出来ないだろう。帳兄弟の一件からまったく休息を与えていない体は既に限界だと理解していた。でも…と最後の力を振り絞ろうとした、その時だった。

バサリと何かが自分を包む感覚。ふわりと鼻先を掠める煙草の匂いにそれが帝統の着ていたコートだと分かるのにそう時間は掛からなかった。驚きに顔を上げれば、薄手のシャツになった帝統が真剣な顔でスッと手を伸ばしてくる。え、と声を発する間もなく腕を掴まれた。


「行くぞ」


どこに。と問いかける間もなくコートのフードを無理やり被せられ、それなりの力で引かれる腕を引かれて立ち上がる。あれよあれよというまま帝統はグイグイと腕を引いて雨の中を歩いていく。時折おぼつかない足すら気にならないぐらいの勢いで私の腕を引っ張っていく帝統の手を振り払う力は残っていない。こんな夜中に彼は何処に連れて行こうというのか。お互い何も発さないまま、帝統は夜のシブヤの街を慣れた足取りで進んでいった。




駅を飛び出してしばらく。シブヤの賑やかな繁華街とは離れた静けさと趣のある住宅街の細い路地を幾つも抜け、辿り着いたのは大きいというわけでないがそれなりに立派な一軒家。ぼんやりと明かりが灯っており、住民が居ることを示しているのが分かる。まさか帝統の家だろうか、なんて考えが過ぎったがそれも玄関先に付いていたインターホンをなんの戸惑いもなく押した帝統の姿にすぐに掻き消された。
ピンポーンと軽快な音が夜の静かな空間に鳴り響く。立派な家の奥から何やらガタガタと人の動く気配と音が聞こえてくる。カチャリ、ガラガラガラ…少し重たい引き戸が開いて中から顔を出したその人は、帝統を見るなり少し呆れた顔をしていた。


「よっ!」

「はぁ…帝統。今何時だと思ってるんですか?」

「ハハハ悪りィ悪りィ。幻太郎しか頼れなくてよ〜」


玄関先の小さな電気が2人をぼんやり照らす。呆れた表情で家から出てきたのは誰でもない、夢野幻太郎だった。「お金なら貸しませんよ」とか「まったくいつもいつも…」とダラダラ何か言っている辺り、普段から相当帝統は夢野先生にお世話になっているらしい。


「今日は一体何です、か」


帝統の大きな背に隠れていて気付かなかったのか、私が視界の中に入った途端に言葉を詰まらせていた。視線が合ったものの何も発せない以上、挨拶も何も出来ないので帝統の上着のフードに隠れるように視線を逸らす。それで何かを察したのか夢野先生は小さく「成程…」と呟き、困り顔のまま笑う帝統に視線を戻してため息を吐いた。


「此処では何ですから、とりあえず中にお入りなさい」

「おう!サンキュー幻太郎!」


ほら、と帝統にずっと掴まれていた腕をまた引かれる。最早此処に辿り着くまでに疲れ切ってしまって逃げ出す力も無い。正直、上手く頭も回ってなくて考える気力もなくなっていた。ぼんやりとした思考の中、流されるまま夢野先生の家の中に引き込まれる。
雨風もない玄関に入っただけでかなり温かく感じた。鼻先を掠める煙草の匂いとは別にどこか安心する落ち着いた香りがして自然と肩の力が抜けてしまった。「お邪魔しまーす」なんて慣れた様子でズカズカと室内に上がり込んでいく帝統が雨の雫を飛ばすので夢野先生が少し嫌そうな顔をした。「廊下を濡らさないで下さい」とか「タオル借りるわ!」とか日常茶飯事なのか普通に交わされる夢野先生と帝統の会話にぼんやりと呆気に取られて玄関でつっ立ったままでいれば、夢野先生がこちらを振り返りそっと来客用らしい少し品のあるスリッパを並べてくれた。


「げんたろ〜腹減った〜!」

「貴方ね、突然来て何なんですか。小生、夕飯ならとっくに済ましましたよ」

「え〜!!そりゃねぇだろ〜?!」

「そりゃねぇだろはこっちの台詞ですよ全く」


さっさとおあがりなさいな、と優しく諭されようやく体を動かす。ふら付く私に手を差し伸べながら室内に招き入れると夢野先生は被せられていた帝統の上着を剥がすや否やこちらを上から下まで見てニッコリ微笑んだ。


「まず貴方はお風呂ですかね」


先ほど沸かしましたので、なんてサラリと言っているが本来こんな出来事があって良いものだろうか。いや、普通ありえない。冷えて寒いでしょう。風邪をひく前にさっさと入りなさいとか最早お母さんか。色々とツッコミも追い付かないぐらい、至極当然のように夢野先生が言う。


「んじゃ、俺も一緒に〜…」

「帝統」


奥の部屋から手慣れたようにタオルを持ってきた帝統の言葉を夢野先生が遮る。その一言でそれ以上言わなくなった帝統の手からタオルを奪い、私の頭に被せるように渡す。


「着替えはあります?」


トントンと進んでいく話の展開に若干置いて行かれながらも夢野先生の問いかけにコクコクと小さく頷けば宜しいとだけ言って、夜食を作ってあげますからあっちに行っててくださいと空腹な帝統をどこかに追い払う。家の奥の部屋に消えてく帝統を見送り、夢野先生が再びこちらを振り返った。


「さぁ、こっちへ」

「……ど、」


思わず零れた声。どうして、と問いかけずには居られなかった。恐らくお風呂場まで案内しようと足を踏み出した夢野先生の背中に一文字を零してしまう。いつもとは違うその声に驚くでもなく夢野先生は柔らかく微笑んだままシーッとその細くて綺麗な人差し指を唇に当てて静かに、と制した。


「帝統のことは小生に任せなさい」


今は黙って風呂に入れ、と言う事らしい。こちらにとってみれば有難い話だが、人が良すぎる。いつもいつも人の事を揶揄ったり嘘をついているイメージの夢野先生だが、何故だか今日は酷く信頼できる気がした。それがただ疲れ切っていて判断力が鈍っているだけなのかは分からないけど、断れそうもないのでゆっくりと歩き出す夢野先生の先生の背中を追ってお言葉に甘えることにした。





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