頭がボーっとする。

体が重い。肌に張り付く、じっとりと濡れた衣服の感覚。あれ?何があって、どうなったんだっけと記憶を辿ろうとするが頭が働かない。体に打ち付ける雨の感覚も遠い。手足が地面に着いていない不思議な浮遊感。微かに聞こえる人の声。「大丈夫、大丈夫だから」とか「しっかりしろ」なんていつだったか聞き覚えのある声が雨の音に紛れて聞こえた気がした。


「しっかりしろ、コウスケ!ほら!!家に着いたぞ!」


ガタン!ガタガタ!なんて慌ただしくて乱暴な音が響くと共に雨の音も感覚も消え、ゆっくり下ろされる自分の体躯。自分の体のはずなのに全然動けなくて、どこか他人事のように感じる。目を開けるのも酷く億劫で、音を頼りに意識をどうにか手繰り寄せようとする。


「嗚呼!もう!どうしたら良いんだよ?!いや、落ち着け…落ち着け俺…ま、まずは先生に連絡してそして嗚呼、一二三にも連絡して…」


ブツブツと呟くような声。嗚呼、これは聞き覚えがある。吹っ飛んでいた記憶を呼び起こす。徐々に浮上する意識の中、声の主は寝たままの状態の自分の体をスッと持ち上げて別の場所に下ろすと、どこかに電話をかけているらしく「はい、はい、そうです」なんて何度かやり取りを繰り返していた。
ぼんやりと意識が戻ってくる。どうにか重い瞼を持ち上げ、遠のいている体の感覚を引き寄せる。状況がイマイチ、理解、出来ない。なんで、俺、此処にいるんだっけ?動き出した思考に疑問を投げかけていれば、声の主は電話を終えたのか会話は止み、こちらに歩み寄ってくる音がした。


「よし、先生が来るまでの辛抱だ。しっかりしろ」


ふわりと優しいタオルで包まれる感覚。ぼんやりとした視界に映る赤い色は酷く困ったような不安の色を全然隠せていない表情をしていて、どうしてそんな顔してるんだろうなんて思った。優しく雨に濡れた自分の体を拭くタオルの感覚が心地いい。このまま再び意識を投げ飛ばしてしまいそうだ。温かい。何もかも投げ出してしまっていい気がした。


「ん、ちょっと脱がすぞ」


投げ出されたままの腕から上着を脱がされる感覚。プチプチと下に着ていた服のボタンが外されていく…。え?


「……え、」

「ッ!!」


そこでようやく意識が覚醒した。驚きの声と共にボタンを外す動きを止めたその手を振り払い、開け放たれてしまった前をとっさに隠すように手で押さえる。未だ上手く動かない体を必死に動かして、脱がされた上着を片手で引き寄せ体を縮こまらせながら驚きで固まっている彼から距離を取る。


「コウスケ…?」

「こ、れには、訳が…ッ」

「コウスケ…お前…声…」


喉の奥が乾いている。絞り出した声は誰が聞いても男としての私の声じゃなくて。嗚呼、チョーカーの裏に付けていた変声機が壊れたか。そして、見られてしまった。見てしまった。ようやく鮮明に見えるようになった視界の先で困惑する彼―…独歩さんの顔は今、私が一番見たくない顔をしていた。思わず私は体を引き摺るようにして後退する。


「どういうことだ…?え?一二三から連絡が来たと思ったらコウスケが合鍵置いてったって言われて、探そうと思えば路地裏で帳兄弟に絡まれてるし、終いにはコウスケが…まさか、そんな……は、はは。何かの冗談だろ?ついに過労で可笑しくなったのか?俺は。夢でも見てるのか?」


少し震えた独歩さんの声。彼が混乱するのも無理はない。きっと独歩さんは見てしまったのだろう。私の胸にキツく巻かれたサラシを。そして本来の私の声を聞いて確信したのだろう。私が女であることを。今まで自分は男だと偽って近づき、ずっとずっと彼らを騙していたことを。
くそ、どうして態々合鍵を遠回しに返して2人には迷惑かけないようにと遠ざけたというのに。奴らから少しでも皆を…私から皆を遠ざけようとしていたのに。先生の言う通りだ。本当はこうなる事がとても怖かったというのに。なのに、この有様は何だ。結局、私は。私は…。


「夢じゃ、ないんです。独歩さん」


発した声は自分で思っていたよりも酷く落ち着いた声だった。頭を抱え、この状況を整理しようとブツブツと何か自問自答を繰り返し始めている独歩さんの視線がゆっくりとこちらを見た。


「…理解しようとしなくていい。私には私なりの理由があった。その理由の為に、貴方たちを騙して利用して生きてきた。私はそういう酷い人間だったって事だけですから」


ふら付く足をどうにか堪えながらゆっくりと立ち上がり独歩さんを真っ直ぐに見る。自然と落ち着いていた。もっと取り乱すと思っていたのに。いや、本心は暴れまわりたい。何もかも滅茶苦茶に壊して、何も無かったかのように取り繕ってこの状況から逃げ出したい。でも、それは、それだけは出来ない。ここまで来てしまえば、そんな事出来る訳がない。せめて、せめてもの最善策を。


「お、お前は酷いヤツなんかじゃ―…」

「いいえ。貴方が思っているほど俺は、私は良いヤツなんかじゃない」


ようやく落ち着いてきたらしい独歩さんが慌てながら困り顔でふるふると首を横に振って否定するので、私もふるふると首を横に振って笑った。


「…なぁ、その理由を俺には聞かせてはくれないのか?」

「言えません」

「どうして」

「これ以上、貴方たちを巻き込む訳にはいかない」

「巻き込むって…」


優しい声を掛けないで。優しくしないで。そんな目で見ないで。いずれ来ると分かっていたこの日をまさかこんな形で迎えようとは思いもしなかった。お願い。これ以上私の中に踏み入って来ないで。お願い。お願い。お願い。


「どうしても、言えないのか」

「言え、ません」

「なんで」

「言えない」

「…なぁ、」

「っ!!!煩い!!私の!私の事なんて何も知らないくせに!!」


思わず荒げた声は酷く広い空間に響いた。全てを話してしまえばきっと楽になるだろうし、きっとこの人は手を差し伸べてくれるだろう。それは私にとって唯一この先に待ち受けている結末からの逃げ道だ。それは分かっている。分かっているからこそ、私は逃げてはいけない事を突き付けられている。最終的な目標を見失うな。私は、あの子の為に。アイツを。アイツを。此処で止まる訳にはいかない。投げ出す訳にはいかないんだ。


「俺は……嗚呼。確かに、お前について知らない事の方が多いな」


当然だ。アルバイト先もホテルやネットカフェ暮らしなのも全部隠して生きてきた。接してきたのだから。一二三さんに酔った勢いとはいえ弟の存在を話してしまったのは失態だとは思うが、それ以上の情報を零さなかったのは自分自信を褒めてやりたいぐらいだ。
だから、貴方たちが私の事を何も知らないのは当然なのに。まるで独歩さんは知らなかったことが悪かったみたいな口ぶりで言うものだから、苦しくてたまらない。いっそ罵倒してくれればいい。怒って良い筈なのに。


「でも」


独歩さんの口調は妙に落ち着いていて、つい先ほど知った衝撃的な真実をも最早気にしていないように振る舞うから…嗚呼、なんて酷い人なのだろう。真面に彼の顔を見ないまま俯いた私に影が差す。


「何があったとしても、俺は、お前の味方でいたい」


顔を上げれば、いつの間に傍に来ていたのだろうか。気づかないうちに独歩さんの顔が凄く近くにあって綺麗な目が私を見つめていた。自然にボロボロと涙が零れ落ちる。私の涙だった。嗚呼、その一言で今の私は救われた気がした。十分だった。幸せだった。例えその言葉が独歩さんが気を使って言ってくれたお世辞だったとしても、嬉しかった。
自然に体が動く。涙を流す私を見てオロオロと慌てだす独歩さんに向けて手を伸ばせば、私よりも遥かに背の高い彼は少しだけ屈んでくれた。そのまま彼の首あたりに手を回して頭を抱くように抱きしめると、彼も少し遠慮がちではあるがおずおずとこちらの腰辺りに手を回して来た。酷く暖かくて優しくて、久々に自ら人に触れた気がした。


「ありがとう、ございます」


どうしてそんな事を言ってくれるのだろうか。いつだって優しくて、頑張り屋で、真面目で、ネガティブで。何かと一二三さんと一緒に心配してくれた。彼がどれだけ優しいかは一緒に居たこの短期間だけだったとしても分かる。それでもきっと無理だ。味方で居てくれるなんて無理に決まっている。私がしてきたことを知れば、味方で居られる訳がない。


「その言葉だけで、十分」

「コウスケ」

「だから、もう、良いんです」


お互い衣服が濡れていて冷たくて寒い筈なのに、酷く温かい。そのぬくもりに微睡む暇も無く、私の中の何かはプツリと切れてしまっていたようだった。涙を止めることなんて出来ないまま彼を腕の中に閉じ込めたまま隠し持ってたソレを静かに発動する。独歩さんが何かに気づいて不安げに口を開き離れようとした時にはもう、手遅れだった。


ドサリ、


鈍い音と共に、私の力では支えきれなくなった彼がゆっくりと床に崩れ落ちていく。その姿を見て胸の奥の奥に堪えていた声が喉の奥から溢れ出る。


「あ、あああ…ああ…」


自分のしてしまった事に酷く後悔していた。ボロボロと涙が止まらない。床に伏したまま気を失っている彼に向けて何度も何度もごめんなさいと謝り続ける。こんな形で突き放すつもりは本当に無かった。でも、でもこの状況で私が出来ることは限られていたのも事実それだけは分かって欲しい。そんな事を願う事すら本当に申し訳ない。


「こうするしかなかった。こうするしか…なかったの…」


本当に俺は、私は、酷い人間だ。結局貴方たちを巻き込んでしまった。私が男装してまで生きてきた本当の目的を聞けばきっと貴方たちは何度でも私を救おうとしてくれるでしょう。先生とか左馬刻さんみたいに。でもそれを私は望まない。
ならばせめて、せめてこれ以上この人には迷惑かけないように。巻き込まないように。私の事なんて思い出さないように。何もかも無かったかのように。すべてが終わったら、すべてが終わったらどんな罰でも受けるから、今は見逃して欲しい。

そういえばさっき独歩さんが誰かに電話していた。先生が来るまでの辛抱だ、とも言っていたのを聞いた気がする。となれば、きっと寂雷先生が此処に向かっていると言う事だろう。長居は出来ない。すぐに出なければ。
フワフワの赤髪を優しく撫でて、止まらない涙をぬぐいながら最後にもう一度だけ謝罪と感謝を呟き、軽く身形を整える。先生が来てくれるならきっと大丈夫。リビングを濡らしてしまってごめんなさい。どうか、どうかこれからも一二三さんと仲良く。そして、私の事は、全て忘れて下さい。


「    」


玄関先で振り返ることなくそっと呟く。涙でぐしゃぐしゃになった顔を兎に角羽織った上着の袖で拭いフードを深く被りながら未だに降りやまない雨の中、未だに軋む体をやっと動かして外へと飛び出した。覚悟していたはずなのに、とても心臓辺りが痛い。痛い。痛い。痛みから兎に角遠くへ逃げるようにどうにか足を動かして進んだ。





×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -