※独歩視点
雨が降り出した。最悪だ。
通行人の波を掻き分けて進んだ先。面白がって距離を取って様子を伺っているらしい野次馬たちの間をすり抜けた先。慎重に覗き込むようにして見たのは細い路地裏の奥で、見覚えのある大きなガタイの良い男とそれとは対照的に細身の男―…帳兄弟だ。そして、その2人の男の足元でぐったりと倒れ込んでいるのは―、
コウスケ。
この距離からでもわかる。脳裏に過った最悪な事態が今まさに視線の先で起こっていた。最悪だ。最悪だ。最悪だ。最悪だ。とっさに頭を引っ込めて建物の影に身を潜める。どうしてこんな事になっているのだろう。いや、それよりもどうにかしなければ。いや、俺にそんな事出来るのか。情報処理の追い付いていない脳内が悲鳴を上げそうになっていれば、不意に響く鈍い音と苦しそうな呻き声。帳残星が笑い声をあげる。見なくても分かる。倒れ込んでいるコウスケを蹴り飛ばした音だ。
「おや?もう終いですか」
「ハッ、呆気ねえ。俺らが出る必要も無かったんじゃねえか?」
「念には念を、ですよ。彼には前科がある。あの方も用心したのでしょう」
薄気味悪い残閻の笑い声が聞こえる。"前科"とは一体何なのだろうか。それにあの方、とは一体…。話し方からするに誰かに頼まれているような口ぶりだ。う、う、と微かに苦しそうなコウスケの声が微かに聞こえる。まだ意識は残っているようだが、立ち上がって逃げ出すことは無理そうだ。考えろ。考えろ。
「雨も降ってきましたし、警察が来る前にさっさと終わらせて帰りましょうか」
「だな。こんなヤツの相手をいつまでしてたってちっとも楽しくねえ」
ズル、と微かに何かを引きずる音がして再び建物の影から静かに息を殺して覗く。残星がコウスケの細い首を掴んで持ち上げた瞬間だった。苦しそうにもがきながら残星の太い腕に必死に爪を立てているコウスケだが、それも無駄な抵抗にしか見えなかった。傍から見ても弱り切っている彼に、帳兄弟相手に抵抗なんて出来そうにも無かった。
「何か言い残すことでもあります?」
薄く気味悪く笑った残閻の声が路地裏に響く。まさに悪役のようなその台詞に皆が思い描く結末は一つだ。そしてその結末を変えるか否かは本人か若しくは新たな登場人物によって変わる。嗚呼、幾ら考えてもこの方法でしか解決策が無いのが残念だ。こうなるなら一二三に連絡しておくんだったな。とか、今考えたって遅いし間に合わない。騒ぎになればきっと誰かが警察に連絡してくれる時間稼ぎでもいい。俺が、今、この場にいる俺が―、
「…なんだ、テメエ」
ズシリと響く低音。大きな残星が彼の首元を掴んだままこちらを振り返った。凄い威圧感。傍らに居た残閻もチラリとこちらを見た。見世物じゃねえ。散れ。とかなんとか吐きすて、彼の首を更に強く圧迫していく。苦し気に表情を歪めるコウスケが微かにこちらを見た気がした。その瞬間、一気に感情が溢れてきて気が付けば手に握っていたガラケーを既に開いていた。
「か、彼を離せ…」
「あ?んだよ、俺に言ったのか?ハッ冗談。怪我する前に帰んな」
「…ッ嗚呼そうだ!お前に言ったんだ!!デカい図体してんのに耳は聞こえないのか?!!」
自分でも驚くぐらい、酷く荒げた声だった。一度は自分の姿に冗談だろうと嘲笑いながら追い払った残星も流石に2度目は無視できなかったようだ。ゆっくりとこっちを振り返り、パッとコウスケを掴み上げていた手を離した。支えもないまま、唐突に手離されたコウスケが地面に力なく倒れる。首の圧迫から滞っていた酸素を一気に取り込んで苦しそうにむせ返っている。早く先生に見せなければ。
「おいリーマン。誰に喧嘩売ってるか分かって言ってんのか?」
雨が酷い。さっさと終わらせよう。こんな体格のヤツが物理的に襲ってきたら勝てる訳ない。普段なら絶対にこんな冷静じゃない。きっと、声が震えて今にも逃げ出そうとしている筈だ。況してや一二三も先生も居ないこの状況で俺が普通に立っている事自体変な感覚だ。嗚呼、どうやらこの冷静さは俺は腹の底で凄い怒っているから出来ているみたいだ。表情にこそ出てないけど、そうだ俺は怒っている。
ガラケーの電源を確認。スピーカー展開しようとしてそこでようやく相手も俺の事に気づいたようだった。メンチを切りながら俺の方に歩み寄ってきた残星が驚いた顔をして半歩ほど足を引いたのが見えた。
「ッコイツ…!!」
「兄者、ソイツ摩天狼のDOPPOだ」
「あー…そうかそうか。どっかで見たツラだと思った」
ようやく俺だと気づいたようだが2人ともこれと言って慌てる素振りはない。帳兄弟は手に持っているマイクも構えず、ニヤニヤとこちらを見ているだけ。なんだ。これ。何かが可笑しい。どうした、こいよなんて煽ってくる辺り増々怪しい。怪し過ぎる。取りあえずスピーカーを展開しようとした。が、不意にマイクの調子が可笑しいような気がした。いつものような感覚ではない。このままスピーカーを展開して攻撃を仕掛けて隙を作り、さっさと逃げようと思ったが謎の違和感に思わず動きを止めた。…と、
「ッ!!!」
「何ィ?!!」
路地の奥で地面に伏していたコウスケが動いた。瞬発的な速さで起き上がると傍らに立っていた残閻に襲い掛かり、何かを大きく振り下ろした。脳裏を過ぎるのは最悪な赤い光景だが次の瞬間に訪れた光景はそうではなかった。ガシャンと明らか生身の人間からは出ないであろう堅い物が壊れるような音がして、バラバラと残閻の上着から何か部品のようなものが零れ落ちる。どうやら残閻が隠し持っていた機械であることは分かるが何の機械なのかは分からない。
「嗚呼っ?!!なんてことを!!!」
「ああああ?!!!何してんだテメエ!!!」
先ほどまで余裕をかましていた帳兄弟の顔色がガラリと変わる。残閻に振り払われ、簡単に吹っ飛ばされたコウスケの手から1本のドライバーがカラリと地面に転がる。苦し気に表情を歪ませながら地面に倒れたコウスケが必死になってこちらを見ると最後の力を振り絞るようにして声を上げた。
「ぶちかませ!!!!」
真っ直ぐに向けられた翡翠の瞳が今だと叫んだ。握ったままのマイクを起動、スピーカーを展開し攻撃を仕掛ける。先ほど感じた違和感はなくいつも通りだ。バチバチと剥き出しになった配線の火花が力なく消え、コウスケに壊された機械を見つめていた帳兄弟が表情を歪ませてこちらを振り向いた。慌てて自分たちのマイクを構えようとしているが既に遅い。
嗚呼、雨が酷くなってきたな。とても寒い。ぐったりと伸びてしまったコウスケを横目に、遂に俺は腹の底で溜まりに溜まったごちゃまぜの感情をリリックに載せて帳兄弟に向けて一気にぶちかました。