※独歩視点



病院独特の空気を裂くようにふわりと心地よい風が吹き込む窓から外をぼんやりと眺めている長い黒髪の少女の姿。吹き込む風がその綺麗な黒髪を弄び、チラリとその透き通るほど白い顔が見えた―…。


ハッとして目を覚ます。心地よい振動を感じながら、視線の先で景色が流れていく。ぼんやりと覚醒しきっていない思考のまま景色を眺めていると、不意に最寄りの駅名がアナウンスで流れてきて自分が居るのは帰宅途中の電車の中だと言う事を思い出す。危ない危ない。寝過ごしてしまうところだったと静かに安堵する。
無事に電車を降り、帰路に着く。本日もいつも通りブラック企業の餌食なって気づけば終電間近の時間で慌てて会社を飛び出し終電に飛び乗ったところまでは覚えている。が、実に変な夢だった。否、夢じゃなくて記憶だ。どうして今あの時のことを思い出したのだろう…やっぱり疲れているのか。と本日何度目かの吐息しながら疲れ切った重い足でどうにか辿り着いた自宅の玄関の扉に手をかける。

開いている。

よくよく見れば電気も点いてるし中に気配も感じる。もう一度時刻を確認すると同居人である一二三は既に仕事に出ている時間だ。と言う事は、と既に睡眠へと移行しかけていた思考が一気に動き出す。カバンから取り出した行き場を失った鍵を握ったまま扉を開ける。
案の定、玄関には一二三のものでも自分のものでもない靴が一足。綺麗に並べてあった。自分よりも1周りほど小さなその見覚えのある靴をぼんやりと見つめながら玄関を閉める。と、パタパタと近づいてくる足音。靴を脱いで視線を上げる。


「お、独歩さん。お帰んなさい」


ちょっとお邪魔してます。なんて未だ幼さが残る顔を玄関に覗かせて笑う彼を見て思わず力が抜けそうになる。さきほど夢に出てきた少女と彼が重なって見える。…いや、何より奥から香ってくるその夕飯の匂いに卒倒しそうだ。


「丁度良かった。ご飯も出来てるし、お風呂も沸いてるのでお好きな方からどうぞ」


さっき一二三さんもご飯食べて出ていったんで。と深夜にも関わらず良く回る舌で状況を報告してくれる彼。疲れ切っている自分とは対照的にまだまだ元気いっぱいだ。どこぞの新婚ホヤホヤの新妻かお前は、と思わず突っ込みを入れたくなるほどに平和なこの空間にずっと浸っていたい…いやいやちょっと待て。相手は自分よりも明らかに年下の青年だぞ。何考えてんだ俺。やっぱ相当疲れているらしい。


「ああ…いつもすまない」

「いいんスよ。これぐらい」


正直一二三が居ない夕飯は適当に食べてしまうこともあるし、風呂も朝入ればいいやと帰ってきて速攻ベッドに倒れ込むことが多い自分にとってみればとても助かる存在だ。不定期とは言えこうしてご飯を作りにきてくれたり、時には一二三のゲーム相手になってくれたりと大助かりな彼に感謝しつつ重たい足を進める。

彼に会ったのは1年ほど前だったろうか。いや、それほど経っていないかもしれないが、まぁそれぐらいの時だ。寂雷先生の所に通っていた彼と先生を通じて知り合って、あっという間に一二三とも仲良くなって―…気づけばこうして合鍵を預け合えるほどの関係になっていた。


「んじゃ、用事は済ませたので」

「帰るのか」

「ええ。長居すると迷惑なので」

「別に迷惑なんかじゃ―…」

「独歩さんは早くご飯食べてお風呂入って寝てください。明日もお仕事でしょう」


一二三さんが帰ってきたら食べる分も冷蔵庫に入れてあるし、とにかく独歩さんは休んでくださいと念を押され俺は大人しく「はい…」と返事をするしかない。彼は彼なりに自分が休めるようにと気を利かせてくれているのだろう。だが、毎度毎度こうして料理を作っておいてもらっておいてさっさと帰してしまうのも本当申し訳なくなってくるのは事実だ。既に来た時に着ていたのであろう自身の上着を手に取って玄関へと向かう彼の小さな背中を見つめながらいつも思う。泊まっていけばいいのに。と。
以前に一度だけそう声を掛けたことがある。だが、その時彼は少し驚いたような悲しげな笑顔で明日もお仕事でしょうと先ほどのように何だかんだと理由をつけて断られてしまったことを思い出していつもその言葉が出ないのだ。


「それじゃ。また来ます」

「ん…今度…ちゃんとお礼する…」

「そんなの良いですって」

「良くないって…」

「俺が好きでやってることですから」

「よ・く・な・い」


トントンと靴を履いていた動きを止めて少し驚いたように目を丸くする彼と目が合う。偶には大人の言う事聞けっての!と、いつにも増して意地になっている自分を見てびっくりしたのだろうか。でもそれも一瞬の出来事で、すぐにいつものふわりとした笑顔に戻ると


「はいはい、了解です。楽しみにしときますよ」


とだけ言って玄関のドアノブに手をかける。本気なのかそれとも本気にしていないのかよく分からない声色でそう言うと最後に「おやすみなさい」とだけ言い残して夜の街へと飛び出していく。


「…嘘じゃないからな」


シンと静まり返る空間で呟く。先ほどまで彼が居たはずなのにその気配もその空気もまるでなかったかのように感じる。いつもいつも彼はこれ以上関わりを持ちたくないとばかりにすぐに姿を消してしまう。正直、彼が何者で何を職業としているかも何処に住んでいるのかも知らない。そういう話題を振っても軽く受け流されてしまうから。
はあ、とため息を吐きながら未だに作りたての温かさを保つ料理の並ぶテーブルに着く。一二三も美味い美味いと言いながら食べたのであろう本日の夕食。料理の腕もそこそこだし、何かそっち系の職業なのかもしれない。とは思うだけで深くは突っ込めない。いや、突っ込んではいけない気がした。
どうして先生の病院に通っていたのかも、左手の大きな傷跡も、俺や一二三にどうしてこんなにも優しくしてくれるのか、も全て知ってはいけないような気がした。彼の事を知れば知るほど彼が離れていくような、今のこの関係性が崩れてしまうような気がして。


終電は既に無いしタクシーでも拾うんだろうか。そもそもこれから家に帰るんだろうか。こんな夜に彼は何処に向かうのだろうか。





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