「―姉ちゃんッ…!!!」



脳裏に響き渡った叫びにハッと目を覚まし飛び起きる。心臓がうるさい。耳にこびり付いて取れないあの声に指先の震えを微かに感じる。息を整え、ゆっくりと上体を動かす。薄い布の向こうで影が揺れているのが見えて、そっと外に顔を出してみた。


「眠れないのか」


パチパチと小さな火花を散らして揺れる焚火の炎を見つめていた綺麗な青い瞳がこちらを見た。もそもそとテントから出てきた自分を見つめるその瞳はいつになく優しさを含んでいてとても安心する。


「目が覚めてしまって」

「そうか」

「毒島さんは寝ないんですか?」

「睡眠は最低限しかとらない。いつ襲撃を受けても良いよう常に神経を澄ませていなければな」

「……大変そうですね」

「心配はいらない。昔からの癖だ」


大きな体で焚火の傍らにちょこんと座ったその姿は少し愛嬌すら感じるこの男、毒島メイソン理鶯。寂雷先生の車から飛び出した後、どうにか終電に飛び乗ってシンジュクから逃げるようにヨコハマに辿り着いた。どうしてだか終電の中で揺れながら脳裏に過ぎったのはこの場所で、気が付けば此処に向けて足が動いていた。


「丁度ホットミルクを淹れた所だ。飲むと良い」

「ありがとうございます」


焚火で温めていた小さな鍋の中に入っていたそれをマグカップに注ぎ、手渡してくれる。少し冷え込む夜には最適の飲み物だ。熱いから気を付けて飲むと良い、なんてどこかの保護者みたいな声に微笑んでフーフーと息を吹きかけながら一口含む。とても柔らかくて優しい味がした。


「すみません。こんな深夜にお邪魔した上にテントまでお借りしてしまって」

「構わない」


いつだってそうだ。不意に此処に足が向いてしまうのには理由がある。ヨコハマの繁華街から離れ、静かな森の奥でひっそりと暮らしている毒島さんはいつだって、どんな時間に尋ねようと嫌な顔一つせずに優しく迎えてくれる。深夜だろうが早朝だろうが毒島さんは起きていて、今日みたいにテントを貸してくれたり話を聞いてくれたり、一緒に料理だって作る仲だ。いつでも心を許している関係、と言えばいいのか。


「何かあったのか?」


少し驚いた。徐に呟くように聞いてきた毒島さんを横目で見る。いつも毒島さんはここに来た理由なんて聴いてこないから。マグカップ越しに感じる温かさに息を吐きながら揺れる炎に視線を映しながらゆっくりと言葉を紡ぐ。


「偶に都会を離れて、静かに過ごしたくなるんです。逃げ出したい…ってわけじゃないですけど、とにかく人とも都会とも距離を置きたい時が」


静寂を忘れた世界。どこに行っても、どこを見ても人、人、人。そんな世界に放り込まれた自分が自棄にちっぽけに見えて、存在自体があやふやになって飲まれてしまいそうになる。否、正直に言えば自分に対して都合が悪くなった時とか、どうしていいか分からなくなった時にきっと考える時間と場所が欲しいだけなのだ。


「そんな時は、毒島さんを思い出すんですよね。どんな時でも快く受け入れてくれて、優しくしてくれて。静かで、心の整理をするのに、この空間はとても甘えられるところだから」


此処は実際静かで、心が落ち着く。人も電気も本当に何にも無いし便利なコンビニだってないけど忙しさや嫌悪をまるで感じない空間だ。きっと迷惑だろうにそれを顔にも口にも出さない森で生活している元軍人さんも含め、この空間が好きだったりする。


「コウスケならいつでも大歓迎だ」

「そう言ってもらえると助かります」

「困っている友人を助けるのは当然のことだ」


友人。すんなりと口に出してくれるあたり、本当に毒島さんは良い人だと思う。何に対しても素直だし優しいし。そりゃあ左馬刻さんや入間さんと一緒に戦っている姿は元軍人とだけあって、迫力もあるし敵に対しては一種の狂気さえ感じる時もある。それでもこの大きくて優しい毒島さんは自分の味方でいてくれる。…いてくれた。


「飲み終えたらまたテントの中で少し休むと良い」

「ん」

「小官は仕掛けた罠を見てくる」

「わ、罠…」

「すぐ戻る。そうしたら朝食にしよう」


徐に立ち上がった毒島さんの言葉に驚きつつも、次の瞬間には微笑んでしまう。捕獲用の銃を肩に担いで爽やかな笑顔で言うものだから何だか時代を間違えたかのような感覚だが、彼らしいと思って自然と納得してしまう。
毒島さんの料理はゲテモノと言って左馬刻さんや入間さんは凄い顔するし好んで食べようとしない。自分も初めて見た時は思わず言葉を詰まらせたものだが、いざ食べてみると美味しいし何ならプラスでスパイスや調味料の組み合わせを教え合うほどに仲良くなったのは嬉しかった。本当に。


「はい」


静かに待ってますと返事を返せば、毒島さんはまた口の端を吊り上げて未だ夜が明けない森の中へと臆することなく入って行った。遠のく背中を見送ってまた一口、ホットミルクを飲む。マグカップの中に残った半分ほどの白色の液体に反射する自分の顔を見て吐息する。
甘えているのは重々承知だ。毒島さんだけじゃない。色んな人に甘えて、甘えて、本来の目的を投げ出そうとしてしまうほどに入り浸っている。そうだ。寂雷先生の言う通り、俺は、私は、この現状が崩れるのが怖いのだ。いつか壊さないといけないと分かっていながら、それを先延ばしにしようとしている。そのことに気づいてしまった。気付かされてしまった。
でも駄目だ。投げ出しては、逃げ出しては駄目なのだ。幾ら先延ばしにしようと、その日はきっと来る。唐突に、突然に、きっと予想だにしない形で、いきなり来るのだ。一歩踏み出せばもう止まらない。止められない。だから―…怖くて、怖くて、仕方ないのに。


パリン、


え、という言葉が零れる前に割れるマグカップ。飛び散ったホットミルクを映す視界がぐにゃりと歪んで続け様に脳裏に襲い掛かる鈍い衝撃。


「―――?!!」


グワンというかガツンというか、否この際、擬音の表現などどうでもいい。乱暴で雑なフロウが無理矢理耳を通して脳裏に直接響く。歪む視界に倒れる体。変に体が痺れるような感覚。体が、動かない。


「おい、コイツ軍人じゃねえぞ!!」

「くそっ!」


倒れた衝撃で少し霞んだ意識の中、飛んできた声とガサガサと茂みを掻き分ける数人の人の気配を感じ視界を動かす。暗闇から現れた数人の男たちの手に持っている物を見て今置かれている状況を理解できた。マイク…恐らく違法マイクだろうが、男たちは不意打ちを狙っていきなり自分に向けてラップを仕掛けてきたのだ。卑怯な奴らだが、その乱雑で乱暴なフロウでは自分の意識を飛ばすまでは出来なかったようだ。


「おいおいおいおい…冗談じゃねぇぜ。今度こそ理鶯の野郎を仕留めたと思ったのによー」

「何だ何だ?"軍人のお友達"か?あ?」


意識を飛ばさなかったものの、変に脳がグワングワンと回っているような気持ち悪さが抜けない。毒島さん狙いだったと思われるその口ぶりに歪む視界で必死に男たちを睨み付ける。徐々に感覚を取り戻しつつある体を無理やり動かしながら小さく唸ると男たちは笑った。


「よお、にいちゃん。大丈夫か〜?」

「なぁなぁ。コイツ軍人のお友達ならよぉ、コイツを餌に理鶯の野郎誘き出せばよくねぇか?」

「お、ナイスアイデアー!」


楽しそうに作戦を話す男たちの声が自棄に脳に響く。人質確保〜とか茶化している男たちの腕がこちらに伸びてくるのが見える。きっと優しい毒島さんの事だ自分を助けようと連中の罠に飛び込んでくるだろう。卑怯なワック野郎どもが。嗚呼、クソ、クソクソクソッ。また俺は、私は、誰かの足手纏いに。誰かを巻き込んで、迷惑かけて、傷つけて、失って―…そんなの、そんなの。


「ねぇ…ちゃ…、」



歪む視界。いつも照れくさそうに笑って私の事を呼ぶ■■■■が、ボロボロになっていつになく苦しそうに笑って口を動かしているのが記憶の向こうで見えた。


「逃げ…て…」



バリン、


鈍いガラスの割れるような音。気付けば息を荒げながらもゆっくりと立ち上がっていて、怯える男たちの表情を見つめていた。身体の痺れも何も感じない。さっきまで弱り切っていた自分が突如起き上がったことに驚いたらしい男たちが慌てたようにマイクを構え直し、臨戦態勢を取った。

だからこちらもそれに応える。

毒島さんに悟られないように上着に隠していたそれを取り出し、カチリとスイッチを入れる。ブオオオンと微かな起動音が辺りに響き渡り、怯えた表情を浮かべた男たちが一斉にフロウを仕掛けてくるが先ほどの不意打ちとはいえ喰らった感覚が嘘のように何も感じなかった。微かに風が吹き抜けるだけのようなそのワックに笑みすら零れてしまう。
感覚が遠い。「何なんだよお前!!!」「くそっ!!!」と本格的にヤバいと理解したのか男たちが更に恐怖に顔を染めていく。嗚呼、あの時もこれだけの力と、これだけの意志があればなぁ…なんてどこか他人事のように脳裏で呟いて、目を細める。
笑みを零しながら男たちを見つめ、そのワックを一通り受け流すと今度はこちらの番だと息を吸い込む。覚悟しろ。逃げられると思うな。私を利用し、大切な人を傷付けようとするなんて、馬鹿にもほどがある。

嗚呼、ほら。唐突にそして突然に来たじゃないか。と誰かが笑う。
その笑いに対し、また誰かが呆れたようにまさか今日がその日だったとは。と言う。

もう止まらないし、止められない。ただただ突き進むだけだ。後悔?何を今更。甘えも先延ばしにするのも全て今日で終いだ。誰も、邪魔させない。自分の口から吐き出される一言一言に乗って、自分の中で何かが壊れていく。それでも不意にいつも仕事で疲れ切って帰宅したあの人が感謝しながら嬉しそうに夕飯を頬張る姿が脳裏を過ぎった。嗚呼、もう夕飯も作ってあげられないなと何故だか思った。


一気に世界が崩れていく音がした。






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