此処か。
スマホのマップ画面を確認して呟く。間違いない。一二三さんのLINEで送られてきた住所と看板にデカデカと書かれた店名も合っている。ビルの間を縫って吹く比較的穏やかな夜風に軒先に下げられたのれんが揺れ、店先に置かれた本日のおすすめメニューの立て看板。お洒落なちょっとした軽食も食べられる居酒屋のようだ。
時刻を確認し、ガラリと入り口の戸を開ける。入るや否や店内のあちこちから「いらっしゃいませー」の掛け声が飛んでくる。グラスやジョッキがぶつかる音に仕事帰りの人達の話し声や笑い声が飛び交う中、ぐるりと店内を見回していると不意に聞き慣れた1つの声が飛んでくる。
「あ!コウスケ〜!!こっちこっち〜!」
周りの話し声の合間を縫って耳に届いたその声に視線を動かす。少しばかり薄暗い店内の中では少々目立つ金髪がふわりと揺れていた。にこやかにこちらを呼ぶ彼こと、一二三さんが手招きをしているのが目に入ってそちらに足を進める。
店内の奥の方の座席に座る一二三さんに近づくと、一二三さんの傍らの席には独歩さんが座っていて、こちらに顔を出すとヘラリと優しい顔をして小さく手を振っていた。
「おつー」
「お疲れ様」
「遅くなってすみませ―…」
席に近づき、一二三さんと独歩さんに声を掛けられてから気づく。店の入り口からは丁度カウンターや他のお客さんの影になって見えなかった席に座るもう一人の姿。思わず言葉が詰まる。
「やあ、お邪魔して居るよ」
綺麗な紫色の長い髪を微かに揺らし、ニコリと笑ったのは他でもない。神宮寺寂雷先生だ。お疲れ様、なんてほほ笑みながら固まるこちらを見つめるその笑顔に動きを止めてしまう。何で此処に、先生が。
「一二三くんに声を掛けて貰ってね」
「そう、でしたか」
まるで自分の言いたかったことを見透かすかのように微笑む先生。向かいの席では独歩さんがなんだコウスケに先生の事を言ってなかったのか、と一二三さんに突っ込む。一二三さんも一二三さんで、言うの忘れてたとかなんとか笑って誤魔化していた。知っていたらきっと何かと理由を付けてドタキャンしていただろうが、此処まで来てしまったからには「帰ります」だなんて言い辛い。踵を返して逃げ出すにも明らか今後がギクシャクするだろうし。大人の対応を強いられている気がして、小さく諦めの息を吐く。
最悪の事態を想定して調整してきたリュックの中に隠してある"それ"も先生の前では下手に使えないだろう。今回は何があろうと大人しく過ごすしかない。良いのか悪いのか、一気に気が抜けてしまった。
「嗚呼、コウスケ悪りィ。先に乾杯しちったわ」
「…え、あ。いえ、良いんですよ。元々遅刻予定だったんですし」
しかも4人席で一二三さんと独歩さんで並んで座っているので必然的に先生の隣に座る流れだ。仕方なくお邪魔しますと小さく声を掛けながら先生の隣の席に腰を下ろす。取りあえずウーロン茶を頼み、お水を飲んでおしぼりを手に取る。まさか先生を交えての交流会になろうとは。どことなく先生に観察…というか面白がられているような気がしなくもない。
「んじゃ、早速だけど―…ほい!眼鏡!」
「あ、ありがとうございます」
そういえば元々はこの眼鏡を返すって体での食事会だったか、と何処からか眼鏡を取り出した一二三さんから数日振りに戻ってきたそれを受け取る。
「この前は悪かった。驚いたよな」
「いえ!俺の方こそ突然頭突きしてすいませんでした」
「え…?コウスケくん、独歩くんに頭突きしたのかい?」
「そーなんすよ〜!コウスケったら独歩のドアップにびっくりして飛び起きた時に独歩の額に頭突きかまして飛び出しちゃって〜」
「一二三!そもそもはお前が前の晩にコウスケにあんな強い酒を飲ませたからだろ!」
「あ〜…それはぁ〜メンゴ☆」
「笑って誤魔化しても駄目だからな」
「え〜!なんで独歩ちんが決めんだよ〜!」
「あの、俺は全然平気ですから」
「コウスケってばやーさしい〜!」
「ケッ…コウスケ、もっと怒っていいんだからな」
「いや、飲むって言ったの俺だし。酔ってそのまま寝てしまったのも俺の責任だし」
俺のせい俺のせい、ってなんか独歩さんみたいだ。何て脳裏で考えながら、必死に一二三さんを反省させようとしている独歩さんを見て思わず小さく笑みが零れてしまう。
「ほぉ…?2人の家に泊まったのかい?」
実に興味深い、と言うように綺麗な顔に手を添えながら微笑んだ先生の声が隣から響いてくる。頼んでいたウーロン茶が届き、店員さんから受け取りながら言い分を考える。
「お酒による寝落ちで……まぁ…結果お2人には迷惑をかけてしまって…」
「いや、迷惑なんかじゃないぞ」
「そーそー!寧ろ酔ったコウスケをあんな時間から帰す方が危険、的な〜?」
既に頼んであったテーブルの上のつまみを頬張りながら言う独歩さん。そして焼き鳥をこっちに向けながら言う一二三さんに「ありがとうございます」と返しながらウーロン茶を流し込む。確かに記憶がないほどの泥酔状態であの家を飛び出していたら更なる失態を冒していたかもしれないと改めて思う。2人があのまま家に置いてくれたから朝まで無事に過ごせた、と考えればまぁ…今回の件は良い方かもしれない。と考え直しながら食べろ食べろと勧められたつまみを頂く。
「そういや、朝帰りで弟さんは大丈夫だったん?」
「んぐっ?!!」
「ぐっ?!」
丁度つまみを頬張った瞬間に飛んできた一二三さんのその言葉に思わず咽る。隣では飲み物を飲んでいた先生も驚いて咽ていた。ゴホゴホと咳き込む自分たちに向かいの席に並んで座ったまま思わずキョトンとする独歩さんと一二三さん。
「え?弟?コウスケのか?」
「うん…ってか何、先生まで驚いてんスか?」
「ゴホゴホ…いや済まない。…わ、私も彼に弟が居たという事に、びっくりしてしまってね」
驚く独歩さんに先生の反応に対して不思議そうな一二三さん。口元を手で拭いながら慌てて誤魔化す先生。この嘘吐きめ。自分の事はすべて知っているくせに上手く隠して。いや、そんなことはどうでもいい。どうしてその事を一二三さんが―…、
「いや、なんで、知って―…」
「えー?俺っちコウスケから聞いたんだぜ?」
「お…俺からですか?」
「うん。家族は?って聞いたら弟が1人って…覚えてねーの?」
いや、自分の事をバラすとするならあの時の自分自身しかいないことなど考えなくても分かることだ。サアァァっと血の気が退いて行く感覚に襲われる。もしかしてそれ以外の事もバラしてしまったのかとドキドキしていると一二三さんが「それ以外は応えてくれなくってさ〜」と少し残念そうに焼き鳥に食らいついていたので、とりあえず一安心した。それぐらいなら、まだ誤魔化しきれる。
「いやぁ…今、弟とは一緒に住んでないんで」
「あり?そうだったんか〜。いやぁてっきり俺、コウスケは弟くんの為に料理上手くなったのかと思ってさぁ」
「いやいやいや…」
実はそうだったんですよ。なんて、言えない。一気にカラカラになった口と喉を潤そうと再びウーロン茶で口に蓋をする。自分とあの子の為に毎日作っている内に自然と身に付いただけ。どうせ作って食べるのならせめて美味しいものを、と調べながら作っていたら出来るようになっていたというだけ。それだけで身に付いたこれを振るっていたあの子も、もう―…。
「なんか意外だな。コウスケが兄貴か…」
「そーそー。だから独歩と同じだなぁって話もしたんだけどなぁ〜」
「そう…っすか…」
しみじみと生ビールをジョッキで煽る独歩さんが呟く。一二三さんの話からすると独歩さんもお兄さん…弟さんがいるらしい。その話も先日の泥酔時に話したというが、やはり全く記憶がない。どれだけ酒に弱いんだ自分。
「ちなみに独歩、お姉ちゃんや妹ちゃんは居ないらしいぞ〜?」
「は?…何故それを俺に言う?」
徐にニヤニヤとあからさまに悪戯気な笑みを浮かべた一二三さんの言葉に、独歩さんが頭に?を浮かべながらゴトンとジョッキをテーブルに置く。そんな話もしたのか、とこれ以上何も言っていませんようにと内心ドキドキしながら独歩さん同様、頭に?を浮かべながら一二三さんを見る。
「だぁって独歩、コウスケと会った最初の頃に先生の病院で似た女の子が居たっつってたじゃんか〜?その子の横顔が忘れられない〜とか何とか、って―…」
「なっ?!!こら!!一二三っ!!このっ!!バカ!!しっ!!!」
「むぐぅ!」
今までに見たこともないほどの速さで独歩さんがニヤニヤと弧を描く一二三さんの口を慌てて塞ぐ。心なしか顔を赤らめている独歩さんの動きにこちらは固まるしかない。と、傍らで小さくクツクツクツと喉の奥で押し殺したような声を零しながら先生が口元を抑えていた。
「成程。一二三くんは独歩くんが見た女の子がコウスケくんに似ていたから彼の姉か妹と推測したわけだね」
「そーいうことっスね!ま、予想は大外れしましたけど!!」
「一二三!!!お前余計な事を!!」
「えー?だってぇ〜」
あはは〜何てまるで悪びれた様子もない一二三さんのシャツの襟を掴んで揺する独歩さん。独歩さんが見たという少女は余程自分に似ていたのだろうか…。いや、まさか、な。チラリと独歩さんの視線がこちらと視線がぶつかったのでニコリと微笑んで見せると心なしか独歩さんの顔が更に赤くなったような気がした。
「まぁ…世の中、自分の顔に似てる人は最低3人は居ると思えって言いますし」
「へぇ〜そんなに居んのか〜」
「他人の空似ってやつですよきっと」
「は、はは…だな」
先生の病院、似ている少女…いや、そんな馬鹿な。気のせいだ。気のせいと目を伏せゆっくりとウーロン茶を煽れば、独歩さんも苦笑しながらビールを煽る。一二三さんは一二三さんで俺っちに似てる人とか会ってみてぇ〜なんて呑気に笑いながらお酒を煽る。
「ちなみに独歩くん」
「はい?」
「その女の子が忘れられないってどういう事かな?」
「んぐぅっ?!!」
「え、」
ニコリと笑った先生が楽しそうに独歩さんに問いかけた瞬間、飲んでいたウーロン茶を吹き出しそうになる。先生の問いに驚いたのか、自分が噴き出しそうになった事に驚いたのか独歩さんの短く漏れた声にゴホゴホと咽ながら器官に入りかけましたとどうにか誤魔化す。大丈夫ですか?なんて視線をこちらに向けてくる先生の顔を横目で見れば本当に楽しそうな顔をしていた。この人分かってやってんな?と内心穏やかではないまま視線を戻しつつ、先生の一言で本格的に顔を真っ赤にして固まってしまった独歩さんの心配をする事にした。