ふうと吐いた彼の紫煙が浜風に乗って空気に溶けていく。背の高いフェンスに背中を預けながら、ぼんやりと景色を眺めつつ横目で彼の様子を伺う。少し離れているところからは何処か(恐らく警察機関)に連絡を取っているらしき銃兎さんの声と、未だに理鶯さんが連中を締め上げているらしき鈍い音が微かに聞こえる。


「…いつまでその酷ぇ芝居を続ける気だ」

「酷いとは失礼な。未だに周りの人たちにはバレてないんですよ?」

「…くだらねえ」


青棺左馬刻。透き通るほど綺麗な白髪の奥に浮かぶ朱い瞳を細めながら、相変わらず気だるそうに話す彼こそヨコハマ界隈を仕切るヤクザであり、ヨコハマ・ディビジョン代表チーム MAD TRIGGER CREWのリーダーである。青棺の名を聞くだけで誰もが恐れ慄くそのご本人とこうして一見普通の学生風の青年が会話を交わしているなど、傍から見れば奇妙な光景でしかないであろう。


「そもそもこの状況を作っているのは貴方では?」

「あ?」


目を伏せ、静かに吐き捨てる。いつも不機嫌な彼の表情が更に歪む。普通、傍に居ると言うだけで信じられないような存在に此処まで言い返せる関係とはいかほどまでの関係なのだろうか。でも自然と彼を怖いと思ったことは初めて会った時以外感じたことはないし、反論しようが何を言おうが彼が手を上げてくることは無かった。そのこともあって、何も気にせず思ったことを吐き返せるのだ。


「この馬鹿げた芝居を辞めさせたいなら周りに私の正体を言えばいい。簡単じゃないですか。一瞬で私の今まで積み上げてきたものすべてをぶち壊すことが出来る」


そう。この人は知っている。俺の"正体"を。本当の自分を。全世界でも2人しか知らないその真実を過去をすべて知っている人物の内の1人。言ってしまえば俺に関する秘密全てを知っているのだ。バラそうと思えばいつだってバラせるし、売ろうと思えば売れる。連中に引き渡そうと思えばいつだって出来る。すべての切り札を持っている存在なのだ。本来であれば色々な意味で要注意人物だが、不思議と警戒はしていない。
彼の気まぐれ次第で死ぬも生きるも決まるというのに、どうしてなのか彼に不信感を抱いたことはこれっぽっちもない。現に、今の今まで彼は周りに俺の事を話すどころか秘密を護ろうとさえしている。


「それをしない貴方が一番この状況を楽しんでいるのでは?」

「…随分と煽るのが上手くなったじゃねえか」


自分だけが握る秘密を楽しんでいるとしか思えない。それ以外に生憎理由が見つからない。気に喰わないのならそれを止められる手立てを使わず、ツラツラと文句を並べるだけだなんて最早変わり者なのかもしれない。煽ったつもりはないのだが、彼は吸いかけの煙草を咥えたまま距離を詰めてきて、ガシャンと俺の顔のすぐ横のフェンスに手を置いた。整った綺麗な顔が悪戯に笑って逃げ場を奪われる。至近距離で向かい合う状態になっても尚、慌てるでもなく静かに言葉を並べた。


「そもそも貴方が"私"を助けなければ何も始まらなかった」


笑顔を崩すことなく吐き捨てる。彼に助けられたあの日を忘れたことなどない。あの日も彼は朱い目で私を見つめていた。降りしきる雨の中、血だらけの私を良いのか悪いのか一番最初に見つけたのは彼だった。
あのまま死なせてくれれば。放って置いてくれれば、今どうなっていただろうか?と考えることは多々ある。何にせよ全てはあの日に始まり、この人の手によって私の今が決まってしまったのだから。今の現状が彼のせいだと言っても過言ではないのだ。


「…変わんねえな。テメエは。どんだけ経っても」

「今更変われませんよ。…変わる訳ない」


彼の顔から笑みが消え、顔の横に置かれた手が静かに離れていく。咥えたままの煙草を手に取って、深く紫煙を吐いた。残り少なくなっていく煙草から立ち上る煙を目を細めて見つめる。


「だって続けなきゃ、コウスケは死んでしまう」


それだけは出来ない。此処で私が俺で無くなれば、コウスケという存在自体が消えてなくなってしまう。この世のどこにも居なくなってしまう。それだけは嫌だった。嫌だったし、その現実が恐ろしく、とても悲しく、とてつもなく寂しくなることを知っているからこれだけは引き下がれなかった。


「さっさと折れちまえばいいもんを」

「…そうですね折れてしまえばきっと楽なんでしょうね」


全てを投げ出して逃げてしまえたらどれだけ楽だろう。誰も自分たちの事を知らない土地に逃げてしまえたら。誰にも干渉されず、別のヒトとして追われることも怯えることも無く生きていけるのであればどれだけ楽なのだろう。不意に脳裏に横切った今も一生懸命色んな人に頭を下げて頑張っているであろう彼を誘って、女性が苦手な癖に女性相手に一生懸命働いている彼を誘って…そう、皆で…皆で現実(此処)から逃げられたら。なんて。


「でも、まだまだこれからなので」


しかしそれは夢であり理想でしかない。逃げる訳にはいかない。逃げられる訳がない。まだ、連中に何も返していない。まだ、まだ、何も出来ていない。あの日から誓って、準備してやっとスタートラインに立ったぐらいだ。これを成し遂げるまでは、逃げるという選択肢は無い。
正直怖くないと言ったら嘘になる。声に出せば崩れ落ちてしまうのは自分自身がよく分かっている。それでも立ち続けなければ。立ち向かわなければ―…。ニコリと笑って自分の心の内を上手く隠す。長年色んな人と出会う内に修得した特技を翳して応える。と、不意にスッと伸びてきた彼の手が掛けていた伊達眼鏡を掬い取っていく。え、と声を出すより前に視線を上げた瞬間彼の顔がグイっと近づいて、


「……ふーっ」

「うわっわっ?!ケホっ、ケホッ!な、何を―…」

「あー…気に喰わねえー」


煙草の煙を吹きかけたられた。突然の煙に視界が霞み、思わず咽る。白む視界の向こうで彼のこれまた気だるそうな声が飛んでくた。一体何の意味があってこんな事をと問い返そうとしたがそれも叶わず、グッと腹部に回ってきた腕の感覚を覚えた瞬間、グイっと体がもっていかれる。いとも簡単に担がれた。


「え、あ、ちょっ?!」

「オイ、銃兎!すぐに車回せ!ああ、そいつ等はもういい!理鶯行くぞ!」

「ったく。人使いの荒い…!!」

「了解した」

「え、え?何?俺、どこ連れていかれるの?これ普通に帰してもらえない感じ?」


珍しく彼に対して失言したらしい。何かが気に喰わなかったのか、いつもみたいに会って色々と話した後に自然と解放されることなく流れるように連行される。先ほど自分に絡んできていた連中を制裁していた銃兎さんと理鶯さんにも声を掛けながらも俺の体を担いだままの彼の足は止まらない。そしてそのまま左程離れていないところに停められていた黒塗りの車に放り込まれた。





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