鼻先を掠める微かな潮の香り。遠くで船の汽笛が鳴っているのが聞こえる。少し長めの前髪を潮風が弄ぶ。度の入っていない眼鏡のレンズ越しに見つめるのは一つの大きな倉庫。この港付近の工業地帯に足を運ぶこと早数日。確信は得られていないものの、辿り着いたその気配を必死に手繰り寄せる。
あからさまにその道の人達であろうスーツの男たちが出入りする倉庫。ちらほら作業着を着ている人たちも見えるが、恐らく工業地帯でそれなりに目立たないようにというカモフラージュだろう。あんぱん片手に建物の影から様子を伺う。
自分の目的のものがあそこにあるのなら今すぐにでも乗り込んでいきたいところだが、何分物証もなければ何をしているのかも正直分からない。時折何かを運び入れているようだが中身は分からない。近々実際に近づいて確認にしなければならないであろう事を想定し、思わず息を吐く。出来ればこうして遠くから観察している内に尻尾を捕まえられれば一番なのだが。騒ぎを起こしたくないし、巻き込まれるのもごめんだ。このご時世、命なんて気を抜けばあっという間に取られてしまうのだから。


「おい、そこのガキ」


建物の隙間に身を置き、あんぱんを食べ終えた頃だった。ふと声が飛んできて顔を上げる。例の自分が見張っていた倉庫の前、一人のガラの悪そうな男がふてぶてしい態度でこちらを真っ直ぐに見つめているのが見えた。嗚呼、気づかれたか。いや、前から気づかれてはいたのだろう。ただ、あちらもあちらですぐに声を掛けてこなかったのはこちらの正体が分からなかったからだろうし、自分以外にも周りに仲間が居ないか警戒していたからだろう。
声を掛けてきたからには自分以外に仲間は周りに潜んでいない事を確認したか、強硬手段に出ることになったかのどちらかだ。こうなれば自分の求めているものがあるかどうか確認するまで逃げる訳にもいかない。静かに落としていた腰を持ち上げて建物の隙間から倉庫の方へと歩み出る。


「てめえ、何嗅ぎまわってやがる」

「嗅ぎまわるって?」

「とぼけんじゃねぇ。ここ最近てめえがずっと遠くからこっちの様子伺ってんのは知ってんだぞ」

「嫌だなぁ。俺は大学の課題で港の周りを観察してただけですよ。ほら、海のゴミ問題とか港近くで行われている流通関係とか」

「嘘も休み休み言え。で?誰の差し金だ?サツか?」

「あらあら。差し金なんて物騒な。本当に俺はただの学生だって。…え?それとも何?学生にも説明できないようなヤバいことしてんの?おっさん達」

「…っ!んのガキ!!!」


表情を崩すことなく男と向き合う。学生のフリをするのも良く使う手だし案外疚しい業界でない限り乗り越えられたりするものだが、今回は相手が相手だ。あえて煽って正体を暴いてやるとニコやかに言葉を並べれば案の定目の前の男は面白いほどに表情を歪ませ、突っかかってくる。近くに居たのであろう男たちも騒ぎを聞きつけて次々と姿を現す。
通常であれば明らかに敵陣地のど真ん中で囲われて、絶望的な状況かもしれない。でも不思議と気持ちは落ち着いていた。胸倉を掴まれても尚慌てふためかない少年に、男は更に頭に血が上ったらしく今にも殴り掛かってきそうな勢いだ。
生憎、自分の持っている力ではこの目の前に居る男の腕を振り払う事も殴り返せない事も自分自身がよく理解している。やれやれ、暴力は苦手なのだが。まァ、これだけ入り組んだ路地の奥なら目撃者も少なくて済むかもしれない。先日手に入れた部品で新調してみたし此処で試してみるかとリュックのポケットにしまっていたそれに手をかけた、その時だった。


「ふぐぅ?!!」


え、とすら声が出なかった。周りに集まってきていた男たちも皆立ち尽くしていた。目の前で男が何処からか伸びてきた逞しい拳を喰らい勢いよく吹っ飛んで行った。自分の胸倉を掴んでいたままの男の手を引き離そうと同時に反動で引き寄せられた肩。大きく自分を囲うように差す影に顔を上げる。


「あれ?理鶯さん」

「ム。無事か コウスケ」


青い綺麗な目と視線がぶつかる。今まさに人を殴り飛ばしたとは思えないケロッとした表情でこちらを見つめているのは理鶯さんこと毒島メイソン理鶯さんだ。ヨコハマ・ディビジョン…MAD TRIGGER CREWのメンバー。どうして此処に、と問うよりも前に理鶯さんは自分の肩を引き寄せていた手を離しながら怯える男たちに向かって一歩、一歩と歩み出ていく。


「こいつ等を排除すれればいいのか?銃兎」


仲間が吹っ飛ばされた上に、大柄な迷彩服という明らかに戦闘態勢の理鶯さんに怯えるスーツや作業着を来た男たち。ポキポキと大きな背中に見とれていると不意に「嗚呼」と理鶯さんの言葉に返事を返す聞き覚えのある声が後方から飛んでくる。


「まったく。毎回毎回、厄介事しか持ってこないな」

「ゲッ…」


静かに振り返り、そこにいた存在に思わず表情を引きつらせる。この人は初対面の時にその見た目と職業に騙されて以来苦手意識が強い。というかこの人から発せられる自分に向けられた威圧感というか嫌悪感というか明らかに嫌いが分かる雰囲気から出来るだけ距離を置きたいのだ。


「何が"ゲッ…"だ、クソガキ。俺の非番を返せ」

「え、知りませんよ。ってか何で2人とも此処に?そもそも非番なら放っておいてくれればいいじゃないっスか」

「口答えすんな、しょっぴくぞ」


同じスーツでも着る人によって印象は変わるらしい。いつもの細身のスーツと綺麗に7:3に分かれた髪型。警官とは思えないその口の悪さに毎回毎回心を抉られる。理鶯さんと同じくMAD TRIGGER CREWのメンバーの入間銃兎さんだ。明らかに不機嫌の塊状態だ。そんな非番の日にこんなトコに来るそちらが悪いんじゃないか。
眼鏡のブリッジをその真っ赤な手袋の指先で押し上げながらこちらを見下ろす銃兎さんの威圧感と言ったらもう…。本当に手錠かけられて豚箱に入れられそうだ。八つ当たりされてる感満載の空気の向こうで理鶯さんが次々男たちを殴る蹴ると制裁を下している。


「匿名のタレコミがあったんだよ。ここ等で"違法マイクの取引の可能性がある"ってな」


ドキリとした。それこそ自分が此処に危険を冒しながら通い詰めた理由だからだ。違法マイクの流通。本来ヒプノシスマイクというのは極限られた資格を持つ者しか手に出来ない代物だ。しかし政府の眼を掻い潜り製造され、販売された違法マイク。本来のマイクと違い、威力も性能も明らかに劣るし使用した本人ですら気が狂ってしまう事例もあるほどに危険なモノだ。そんな代物がヨコハマでやり取りされているかもしれないとこの辺りを見張っていた―…。


「(一郎のやつ…)」


目的である違法マイクのやり取りがありそうな所を教えてくれるよう依頼をしていたあの萬屋の青年が脳裏に過ぎる。仮に一郎でなくとも二郎くんか三郎くんがどうにかこの銃兎さんに遠回しに知らせたに違いない。自分が、此処に居ると。危険な時は助けてくれ、と。


「俺は放って置いても良かったんだがな。非番だし」


どんだけ非番の事引っ張ってんですか。と言い返せる訳もなく、相変わらず辺りを一掃する勢いで静かに襲い掛かってくる男たちに対応している理鶯さんに向けて1人ぐらい話聞ける程度にしておけよなんて声をかけながら歩いて行ってしまう。本当、何なんだあの人。と開きかけていたリュックのポケットのチャックを閉める。まだお目見えは先になりそうだと息を吐く。
と、潮風に混じって微かに煙草の匂いが鼻先を掠める。煙草の紫煙に乗って近づいてくるその気配に脳裏はとっくに理解していた。タレコミがあったとはいえ乗り気じゃない銃兎さんが態々駆けつけてくれた事、理鶯さんも同行している事を考えれば共通している人物は1人だけだ。


「左馬刻さん」


振り返った先の路地の前で立っていたその人は、あの日と同じ透き通るほど綺麗な白髪を浜風に揺らしながら紫煙を吐いて、朱い瞳でこちらを睨み付けていた。





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