愛しい眩暈


 学校であれ職場であれ雨の日に毎度毎度お休みをするなんてことは当然の如くできない。特に日本で言うところの梅雨の時期である五月中旬から六月にかけては、殆んど毎日雨天というのが風物詩とも言えるだろう。
 休みたい衝動に打ち勝ち気だるい体をなんとか持ち上げて鞄が濡れることは一応死守しながらの登校に、そろそろ嫌気が注してきた。髪の毛やら制服やらが濡れてしまうというのはそれこそ梅雨の風物詩といえるだろう。ただでさえ朝は苦手だというのに雨の所為で余計にふてぶてしく、必死の形相で登校する私が果たして視界に優しいのかどうかは定かではない。学校に着いたら着いたで、昇降口の床は泥まみれだし誰かが弾いた傘の水にひっかかるし、人のいないとこでやれよと睨んだそこには紫原が「ごめーん小さくて見えなかったー」とかのたまいやがる。小さな嫌がらせに苛立ちも付いてくるが仕返す!絶対にだ!と心に誓い、その場は冷静を保った。一歩教室に入れば、思わず振り払いたくなるような蒸し暑さが授業中でも構わず纏わり着いてくる。しかし払ったところで湿気は何も変わらないので無駄な体力を使ったりはしませんが。あとずっと私の後ろであちーあちーなどと戯言を吐き続ける紫原がうっさい。
 そんな訳でやっと下校の時間になる訳だが、ここで私の下校パターンを考えてみる。登校時にも雨が降っていたのだから当然マイ傘なるものを持ってきている。時折人の傘を勝手に拝借しやがる輩(私の場合主に紫原)がいたりするけれども、風紀指導の先生辺りに言えば傘をレンタルしてくれたりするので学校というものは至れり尽くせりだと殊に思う。しかし今日のマイ傘は盗まれてなどいなかった。先日、借りパクられたマイ傘ちゃんではなく、本日は折り畳み式というなんとも画期的なマイ傘ちゃんなのだ。これなら鞄に入れておけば盗られる心配も殆んど無い、がこの画期的な形状の為に傘の面積が非常に狭くてしかも割りと脆かったりするので私はあまり好まない。それでもこれを持ってきたのはこれしかなかったというのもあるが、今朝はだいぶ小降りでありこの傘の防御力でもいけるんじゃね?帰りはもう帰るだけだし、と思い至った次第である。ということでパターン一、普通に傘をさして帰る。
 しかし、もし雨が思いの他ツンデレっちゃったりなんかして今朝とは比べ物にならないほど強くなってしまっていたらどうだろう。雨は地面にそこまでなんの恨みがあるのさと思うほど痛々しく降り続く。この強さに私の今日の防御力で打ち勝てるか?いや無理だろ。しかし帰らねば成らぬ、帰らねば成らぬのだ。もしかして奇跡的にこの傘が打ち勝つ可能性だって捨ててはいけないのではないだろうか。そうよゆずき……自分を信じるのよ。勢いだけは良く開かれた傘は呆気なく散って行った。一歩踏み出した瞬間雨風に全てを持っていかれる勢いで、マイ傘ちゃんは私と柄を残して旅に出てしまったようだ。離すまじと握り締めた傘の柄は単体では恐らくなんの役にもならずむしろ邪魔である。切なげに手元に残るそれを見下ろした私は虚しさで溢れているよ。どうせなら柄も一緒に逝かせてあげれば良かっただなんて思いつつ、はて本格的にどうしたものか。
 可哀想な柄は庭にでも埋めてあげようと鞄に仕舞うと、これだけは絶対に濡れないようにとビニールで密封された携帯を見つける。ここで第二のパターン、母にお電話である。あまりこの手は使いたくなかったのだが、致し方ない。本当ならば真っ先に思い浮かぶお迎えであるが、母が小言も言わず出動してくれることは考えにくい。いやあでもこの状態の可愛い可愛い娘を放って置く母親は流石にいないだろ、私はマミーを信じてるぜ。そして数分後には、一向に繋がらない小型機械に虚しく「信じた私がバカだった!」と嘆くのだ。パターン二は保留。
 容赦の無い雨はちょっとくらい気弛めてもいいのよと思うほどに容赦がない。絶え間なく降り頻る雨は殆んど壁のようだった。頭の隅で傘のレンタル案も挙げてみたが、この雨量に傘などというものがどれ程の役に立つのかと考えればそれはそれで微妙である。先程のマイ傘ちゃんの殉職もあるのでレンタル傘までもおじゃんにするのは幾らか憚られた。此の際ならば必死に傘を差し歩くのとノーガードで全力疾走するのはあまり変わらないのではないだろうか、どうせ濡れる的な意味で。どうしても濡らしてはいけない機器類は完全防備であるし教科書類は前もって教室に置いて来た、そこまで考えたところで致し方ないと腹を据える。
 よーい、どんと心の声を漏らし勢い良く駆け出した。豪雨も吃驚な元気っぷりである。取り敢えず正門まで突っ切ろうと走り出したはいいが、五秒と経たない内から既にずぶ濡れ大サービス。顔面に打ち付ける雨粒が鬱陶しい、水分をたっぷりと染み込ませたスカートは重みを伴って行く手を阻むしシャツも髪の毛もぺたりと肌に張り付いて気持ちが悪い。ぜえはあと荒い息遣いのままに正門を抜けると軽いクラクションから呼び止められた。
 いきなり走り出していきなり立ち止まった所為なのか、速い心音を全身で感じつつ頭はぐるぐる回ったように気持ち悪かった。首筋を伝う水滴が汗なのか雨粒なのかは最早判断のしようがないことだ。私の真横に停車するや否や、焦るように運転席から飛び出してきた彼に殆んど反射的に笑い掛けた。

「氷室先輩!」
「何やってるの、早く乗りなさい」

 自分が濡れてしまうのも構わず、態々降りて助手席のドアを開けて下さる紳士っぷりは正に感服の一言だった。でもずぶ濡れ状態の私が乗れば当然シートが濡れてしまうし、もうこれだけ濡れてしまったら一緒だからなどと伝えてみれば氷室先輩にしては珍しく強めの口調で「いいから乗って」と促した。私が恐縮しながら乗り込むとやはり当然といったように氷室先輩が閉めてくれる。ああもう本当に申しわけなさ過ぎるだなんて思いながら運転席に乗り込んだ先輩を見やれば、なんてことでしょうこれは怒ってらっしゃる!あの氷室先輩が怒ってらっしゃる!眉間に刻まれた皺にあわあわと気色悪く挙動不審になりながら「ご、ごめんなさい」と震える声で謝罪する。あまりにも不自然な沈黙が続いたためあれ?もしかして聞こえなかった?とか思ってみれば隣から小さく漏らされた溜め息に思い切り肩を揺らした。

「ゆずき」
「はいっ」
「何が悪いのか本当に分かってる?」

 何がと言われれば濡れたから、ということではないのだろうか。落ち着いているようで、どこか剣を孕んでいるような声に言葉が詰まる。先輩の方を見れなくてひたすらに窓ばかりを眺めた。雨は先程よりはやや弱くなってきているようで、フロントガラスに雨粒が落ちて繋がって、ワイパーに呆気なく掻き消される。そんなやり取りを幾度も繰り返し見つつ彼の問い掛けの正しい答え思案しているのだが、一向にそんなものは見付からない。理由は分からないけれど怒られている、そんなふざけたシチュエーションに泣きそうになる。

「一応聞くけど傘は?」
「雨風と共に還らぬ傘となりました」
「だろうね」

 この雨じゃね、と続けた氷室先輩の横顔からはあまりにも何も察することが出来なくて、折角大好きな先輩と二人きりだというのにちっとも楽しくない。

「ゆずき、」

 呼び掛けに萎縮するように「はい」とか細く答えると、先輩は堪えかねたように小さく吹き出した。一方の私は、訳がわからないまま怒りを買い、また訳がわからないまま笑いを取ってしまったらしい。なんのこっちゃときょとんとする私の頭をぽんと一撫で、前方に視線は向けたままの何気無いようなそれに酷い動悸がした。
 ああ、この人はこれだから困る。そんな格好良いことをさらりとやってしまうから殊更格好良すぎて堪らない。

「俺はね、心配したんだよ」

 穏やかで優しい声だった。悪いことをした子を叱るような、諭すようなそれに子供扱いされている、と瞬時にわかった。心が軋んだ。

「こんな酷い雨の中、危ないって思わなかった?」
「……」
「唇、尖ってる」
「いひゃい」

 片手で頬っぺたを摘ままれ「拗ねてるの?」と笑う笑みが居たたまれない。いつまでもガキ臭い自分にも、いつまでも縮まらない距離も。

 元々大人びていたのに卒業して大学生になったら余計に色気に磨きがかかった。昨年あれほど羨ましがっていた三年生の制服は、先輩の前では幼さしか感じられない。いつの間にか車の免許なんて取ってるしさらりと運転しちゃうし、どれたけ引き離されればいいんだろう。

「いやー、お母さんに電話したんですけど、出なくてー……」
「俺に頼めば」

 あまりにも自然に返されたそれに心臓が跳ねた。「はっ、うぇ?」だなんて妙な声まで上がった。

「うん、それがいい。そうしよう、決定」

 そう言い切って微笑みかける先輩は大層美しいです。時折少々強引な節があるお人ではあったが、ここで発揮されるとは開いた口が塞がらない。いやまじで。
「いやいや、ていうか……だめでしょ」
「なんで?」
「なんで、って氷室先輩にも用事とかあるだろうし」
「別にいいよ」

 いい笑顔で返されてはつい納得してしまいそうになるが、どうにか堪える。

「いや、私が気にするっていうか……その、」
「ゆずきは気にしなくていいし、俺がそうしたい。だから決定」
「でも、」
「これから本格的に受験なんだし風邪でも引いたら大変だよ」

 何を返そうと言いくるめられそうな雰囲気の中、奥歯をぎりぎりと噛み締めるしかできない自分はやはり稚拙であった。

「受験失敗したら困るしね、俺も」

 ぼそりと呟かれたそれは多大な疑問として私に直撃した。なんで先輩が困るのだろう、そんな思考はすぐに読めたらしい先輩は先手を打った。

「志望してるの、俺んとこでしょ?」
「えっ、あっはあ……」
「俺も待ってるから、頑張ってね」

 これは、期待してもいいんだろうか。この距離を、果てしないかのようすらに感じる私にとって「待ってる」の言葉がどれだけ救いになるか。彼は分かっているのか。
 顔に熱が集まるのは、狭い車内と高い湿度のせいだと、そんな言い訳を心の中だけで繰り返す。


黄昏様に提出
微妙な終わり方でごめんなさい
そして長いぞごめんなさい



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