「君とは、もう、きっと会えない」
彼の代わりにカーテンを開き、太陽の光を背に笑った。ちゃんと笑えていたかどうかは分からないけれど、まだ覚醒しきれずにぼんやりとしている彼にはきっと分からない。
僕は改めて彼に「おはよう」と云った。いつか云ってみたかった言葉だ。いつもは「おやすみ」としか云えなかった。
「おはよう」
綾人はやはりまだぼんやりとした顔をしている。しょうがないなあ、君は。僕は笑って彼のベッドに近付く。いつまでも寝ぼけていたのでは綾人が遅刻をしてしまう。最後くらいゆっくりと話をしていたかったけれど、時間は常に平等に流れ、誰かの為に速まったり遅まったりしない。本当に残念なことだけれど、それが変えられない事実なのだから仕方ない。
ベッドから引っ張り出すつもりで、彼の両手を掴む。その瞬間、彼に触れたのはこれが初めてだ、と気が付いた。今までは触れることができなかった。触れる前から諦めていたのかもしれない。どちらにせよ僕と綾人が完全に別の存在になってしまったのだという現実を突きつけられたような気がした。
「ファルロス」
彼はゆっくりと僕の名前を呼ぶ。寝起きの、頼りなげな声。
僕はどうしようもない絶望に叫び出しそうで、ともすればその場に崩れてしまいそいだったのだけれど、何でもないように「なあに?」と首を傾げてみせる。
綾人はじっと僕を見つめ、微かに笑った。
「なに、泣いてんの」
あ、と思った時には既に遅く、頬を温かい雫が滑り落ちる。
「云ったじゃないか」
せめて声は震えまいと慎重に言葉を紡ぐ。「なにを?」似合わない笑みを浮かべたまま、綾人はベッドの上に座り直した。
「君とは、もう、会えないんだって」
二度も僕の口から云わせないでよ。口の中でぼそぼそと呟く。
本当に辛くて、苦しくて、こんな悲しみはこの世に存在しちゃあいけないんじゃないか、って半ば本気で思っているんだ。それなのに彼は「それ、ほんと?」なんてまるで緊張感なく疑問を発する。
「うそなんか云ってどうするの」
まあ、そうだよね。なんて綾人は首を傾げ、うーんとわざとらしく唸る。表情は前髪に隠れて見えない。
「でもさ」
「でも?」
「うん。ファルロスがいないって、それ、もう俺じゃない気がする」
「…君は君だよ」
「そう…なんだけどね」
「僕なんていなくたって、君は何も変わらない」
「それは違う。ファルロスがいる俺がもう当たり前になっていて、ファルロスのいない状態の俺ってのはもうどこにも存在していないんだ。うーん…なんていうのかなあ…あ、パラサイト?」
「今の、怒っていいところ?」
「え、なんで?」
どうやら本当に冗談を云ったわけではなかったらしく、至極真面目な表情で眉を顰める綾人を見て、僕は思わず深くため息を吐いた。
「もういいよ」
なるべく言葉の意味は考えないようにした。たとえば、習得していない言語で何を云われようが少しも心に響かないのに似ている。思考を追いやって、ただ事実だけを口にする。簡単そうで、実はとてつもなく難度の高いことだった。
「とにかく、僕はもう、君の前に現れることはない」
それでも、やっぱり心は痛む。相反する表現は、ただの自虐行為だ。そのことを教えてくれたのは他でもない、彼だった。僕は限りなく多くのことを、彼から学んでいる。僕が彼であることの所以は、そこにあると云っていい。
心に嘘を吐く。その度に切り裂くような痛みに耐える。今まではどうしてそこまで辛い思いをしなくてはいけないのだと思っていたのだけれど、今なら、ちょっとだけ分かる。
相変わらず腑に落ちないといった様子の綾人は、「ふうん」と特に感慨もなさそうに云った。僕はまたその痛みに顔をしかめる。
「あのさ、」綾人が視線を窓の向こうに向け、目を細めた。その横顔がどこか拗ねているようにも見えたのは気のせいだろうか。「俺たち、友達じゃなかったっけ?」たぶん、そう見えたのは気のせいじゃない。
「友達…に、なりたかった」
「なんだ、ただの希望だったんだ」
「そ、じゃなくて…」
「うん」
上手く言葉が見つからない。友達になりたかった。友達だと思っていた。けれど、結局そんなささやかな願いすら叶わないと知ってしまった。
僕は全部思い出してしまったから。
「ただ、君と一緒に春を迎えたかった」
穏やかな顔をする彼の顔が霞んでいく。
ああ、僕はまだ君の側に居たかった。