5時限目の授業開始のチャイムが鳴るほんの少し前、珍しく真田先輩の方から「今日、時間あるか?」とメールの着信があった。ちょっと話があるんだ、と放課後に真田先輩を訪ねたわたしが連れてこられたのは閑散とした屋上。下校時間が近付き、既に施錠されてしまっているはずの扉を真田先輩が開き、夕闇に沈みかけた外気の、少しだけ冷たい風がわたしを吹き抜けていった。何か大切なものが過ぎていってしまった気がして、振り返る。背後には上ってきた階段があるばかりで、勿論何かがあるわけがない。しばらくその薄暗い下り階段を眺めていたけれど、先に屋上へ出てしまった真田先輩を追いかけて外に出る。
空は綺麗なグラデーションに染まり、まるで空に貼り付けたような頼りなげな三日月が浮かんでいた。綾人とわたしの好きな色だ。沈む日の橙色、迫る群青色、その間のグラデーション。その一瞬を収めたくては、綾人は空に向かってシャッターを切っているらしい。瞬きをしている間にも移り変わる景色を留めようと、わたしはじっと空を見つめる。

気が付くと真田先輩は街が一望できる一番景色の良い場所までひとりで歩いて行ってしまっていた。わたしも慌てて真田先輩に駆け寄る。何だか真田先輩と居ると、わたしはいつもこうやって真田先輩の後ろを追いかけている気がする、なんて思いながら。

眼下に広がる街並みを真剣な表情でじっと見つめる真田先輩の横顔をわたしはそっと眺める。相変わらず端正な顔立ちだなあ、とか。いつもならこうやってじっと見ていると怒られてしまうのだけど、今日の真田先輩はわたしが側にいることなんて忘れてしまっているかのように険しい表情のまま。どうしたんですか?今まさに問いかけようとした時に、先輩はポケットから何かを取り出した。
沈んでゆく日の最後の光を浴びて鈍く輝くそれを、初めは何だろうと横から覗き込むようにしていたのだけれど、それがわたしの記憶にある物だということに気が付き、思わず「あっ」と声を漏らした。つい最近、わたしが黒沢さんから預かってきた、懐中時計。
それなりに古いもののようなのに、しっかりと手入れされていて、時計自体の価値よりも、その持ち主にとっての価値を思わせるような、素敵な、時計。

「やっぱり知ってたか」真田先輩は懐中時計の蓋の模様を指でなぞり、少しだけ笑った。その表面はひどく破損し、蓋を開けることはもう出来ないのではないかと思った。

「その…時計って…」
「ああ」

シンジのだよ。真田先輩が荒垣先輩の名前を呼ぶ声は、いつだって暖かい。とても大切な存在だから、その人の名前を呼ぶ時にだって、その気持ちが表れるに違いない。その音を聞く度、わたしは羨ましくなって、ちょっとだけ荒垣先輩に妬いてしまったりする。

「病院にあまり荷物を置いておくわけにはいかないだろう?けど、アイツにとって身内って云ったら俺くらいしかいないからな」

俺も、そうだな。蓋に滑らせていた指を止めて、真田先輩は双眸を閉じた。蓋に添えた指に力が入っているのは、見ているだけでも分かる。
「それ…」荒垣先輩がとても大切にしていた懐中時計の無残な姿に心が痛む。別に必要なかったのに。黒沢さんから預かった懐中時計を一刻も早く荒垣先輩に渡したくて、息を切らせて荒垣先輩を捕まえたあの日、荒垣先輩は言葉とは裏腹に、とても嬉しそうに顔を綻ばせた。手に戻ってきた感覚を何度も、何度も確かめ、安心したような表情を浮かべた。それ程までに大切なものだったのだろう。
「荒垣先輩の側に置いておいた方が良いんじゃ…。荒垣先輩のとても大切なもの、なんですよね」
わたしが云うと、真田先輩は「大切なものだから、だ」と深く息を吐いた。

「俺が預かっておいてやるから、目が覚めたら取りに来いってシンジに伝えてきた」

刻一刻と色の変わる空を睨みつけるように見上げた真田先輩につられるよう、わたしも空を仰ぐ。時折吹き付ける風は冷たくて、まるでわたしに警告をしているようだった。考えろ、と云って。

「早く取りに来てくれるといいですね」

空に視線を向けたままわたしは云う。

「これは…アイツがアイツである証なんだ。たから慌てて取りにくるさ」

やはり同じように視線を逸らさず云った真田先輩が、少し笑った気配がした。
分かるような、分からないような、微妙な云い方だなと思う。きっとどういう意味なのか訊ねても真田先輩は「シンジが起きたら訊け」なんて云うんだろうなと予想ができた。真田先輩は今から荒垣先輩が目覚める日を楽しみにしているのだろう。もしかしたらもう二度と目が覚めないかもしれないという恐怖は、きっと彼の中には存在していないに違いない。或いは、その可能性を意識から完全に消し去ろうとしているか。どちらにせよ、そんな真田先輩と一瞬にいると、わたしまで絶対大丈夫、と思えてくる。世の中に絶対なんて存在しないと思っているのに。


「それで、俺は思ったんだ」

ふいに真田先輩は声の調子を変えて、視線を下ろした。

「…つまり、この懐中時計を眺めていると、色々と考えてしまって…」

急に歯切れの悪くなった真田先輩に視線を向けると、真田先輩は眉を潜め、手のひらに乗せた荒垣先輩の懐中時計をじっと見つめている。

「真田先輩?」
「決めたんだ、俺も」
「え、何を…ですか?」

そこで真田先輩は大きく息を吸って、また顔をしかめた。突然どうしたのだろうと、わたしは真田先輩を覗き込む。

「当たり前にあるものを失う恐怖は嫌ってくらい知っていると思っていたのに、どうやら俺は忘れてしまっていたらしい。いや、忘れたかったのかもしれないな」

何について云っているのか分からずどう返答したものかと計りかねていると、真田先輩が「瀬田、」とわたしを呼んだ。「はい」答えながら、妙な違和感に内心首を傾げる。瀬田、と真田先輩はわたしを呼んだ。ただそれだけなのだけれど、何か、どこか違うような…。

「だからどうしてもお前に伝えておきたかったんだ」

真田先輩の真剣な眸をぱちりぱちりとシャッターを切るように何度も瞬きするわたしの頭の隅で、パチンと何かが弾ける。

「瀬田」

これは、わたしが羨ましくて、ちょっと妬ましかった、暫定荒垣先輩限定の、あの音だ。






「俺は、お前が好きだって」











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