手中の懐中時計の針は少しずつ、けれど確実に時を刻んでいた。一秒一秒、休むことなく動いている。それを眺めながら、いつか針の止まってしまう日のことを考えた。時間の止まってしまう日。それはつまり、命の終わる時。

この時計を、ある日どこかで無くしてしまった。あまり物に執着しない質の自分がずっと手放さずに持っていた数少ないもののひとつだったので、無くしたと気付いた時には動揺もしたし多少落ち込みもした。けれど、このタイミングで無くしたのにはきっと意味があるに違いないと考え、諦めた。
自分の命が長くはないことは自分自身がよく知っている。もう終わりの見えている自分に、時を刻む時計は必要ない。そう考えれば、時計を無くしたのだって必然の出来事だった。

しかし、数日後にそれは戻ってきた。
見つけ出してきたのは、瀬田里綾。面白くもない俺の話を聞きたがり、俺の望むままに色々な話をしてくれた、優しい少女だった。
寮に帰ってくるなり真っ先に俺の側に駆け寄ってきた彼女が、僅かな時間さえも惜しむように時計を差し出してくれた、その瞬間がたぶん、止まりかけていた俺の時間が動き始めるキッカケだったのだと思う。錆び付き、軋む音とともに何とか動いている状態の歯車が、潤滑に回り始めた。そんな気がした。
その時にたぶん、揺らいでいた決意が固まったのだと思う。彼女、瀬田里綾になら、任せられる。そう思った。

だから俺は彼女をろくに説明もせずに長鳴神社に連れ出し、「アキを頼む」と前置きもなしに告げた。アキを、みんなを、お前の兄を、ちゃんと見ていてやってくれ。きっと彼女とこうしてふたりで話すのは最後だろうと思っていた。
寮に戻ってからの約1ヶ月、俺を気遣い、何かと側にいてくれた彼女に後事全て押し付けるようにしてしまったことは、勿論申し訳なく思っている。けれど、彼女しかいないと思ったのだ。

あまりに真剣な顔をしていたのだろう。初め、彼女は驚くような、或いは訝しむような曖昧な表情を浮かべていた。けれど俺が本気だと分かったのか、それ以上は何も訊かず、ただ頷いてくれた。
アキが彼女に惹かれているのは明らかで、彼女もアキを特別に思ってくれているのは知っている。時間はかかるかもしれないがお互いの気持ちにいずれ気が付くだろう。出来ればそんなふたりを見たかった気もする。いずれにせよ、ふたりが幸せならそれでいい。勝手を云っていることは十分承知だ。

そして、彼女の双子の兄のことを考えた。何事にも動じなさそうに見えて、ひどく不安定な部分を持った少年だ。いつだったか瀬田里綾と話をしていた時に、そんな話題になったことがある。「荒垣先輩は何でも知ってますね」いつかの兄と同じ台詞を口にして、やはり彼女も困ったように笑っていた。



「綾人、喋れなくなっちゃったことがあるんです。10年前に」

誰にも云ったことないんですけど、そう云った彼女の口調は、まるで悪戯を告白するかのようだった。

「原因は分からないんです。たぶん両親の死、だとは思うんですけど、わたしもその頃の記憶って曖昧で。だから何かしらのショックがあったんだろうってことくらいしか分からなくて」

わたしは全然平気だったんですけどね。自嘲気味に彼女は笑っていた。けれど、ふいに真面目な顔になって、「たぶん綾人はわたしよりずっとずっと繊細なんです。だから心が付いていかない。わたしなら掠り傷くらいで済むようなことが、綾人には深手になっちゃうんです」だから、と彼女は続ける。



「だから、荒垣先輩も、急にいなくなったりしないでくださいね」




彼女が何を指してそう云ったのかは分からない。臨時的に寮に身を寄せている俺の今後を危惧したものなのか、ひとりで居たがる性質を指摘したものなのか、或いは、俺がこれからしようとしていることを知っていたからなのか…―。




察しの良い兄妹に見つからないよう、朝早くに寮を抜け出し、一日街をぶらりとして過ごした。人の集まりそうなモールや駅前には近寄らなかった。見つかったら罪悪感が増してしまうかもしれない。泣かれてしまったら、決意が揺らぐかもしれない。そんな生易しい覚悟では、勿論ないのだけれど。

(悪い)

瀬田里綾に、そして瀬田綾人に。アキに桐条に、特別課外活動部のみんなに。そして天田に。

いくら謝っても何も解決はしないけれど、もう、それくらいしかできない。怒るんだろうな、とぼんやり思った。アキは勿論、見た目からは想像できないくらい勇敢で物怖じしない現場リーダーも、一発殴らせろとくらいは云うかもしれない。
許して欲しいなんて思っていない。思えるはずもない。恨んでくれて構わない。縁なんてむしろザックリと断ち切ってほしい。ただ、幸せであって欲しい。明日からも変わらず、毎日を過ごして欲しい。

(なんて思っていると知ったら、一発どころじゃないだろうな)


口元に笑みを浮かべ、間もなく針が天辺を指すのを確かめてから懐中時計の蓋を閉めた。その音が合図であったように、隠された時間へと突入する。大きな望月が空に浮かび、世界は死んだように静かになった。まだ俺は呼吸をしている。掌の熱を奪った生暖かい懐中時計を、胸ポケットに滑り込ませた。






「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -