気が付くとベルベットルームに居た。
わたしはいつものように高級そうな椅子に腰掛け、目の前のテーブルに両肘をつけたイゴールさんと向かい合っている。
この感覚は、初めてベルベットルームに招かれた時と似ているなと思った。自分の意志で来たのではない、ということだ。
何度かそうやって呼ばれたことがあるのでわたしは今更特に驚きもしなかったのだけれど、イゴールさんが「おや?」と不思議そうに、けれど楽しんでいるような口調で云ったので、どうしたのだろうと思った。
「あら」聞き慣れない女の人の声に顔を上げる。
エレベーターガールのような青い服を着たその人は、まるで人形のように端正な顔に綺麗な笑みを浮かべイゴールさんの横、つまりテオの定位置、に立っていた。やはりイゴールさんと同じように面白がっている雰囲気がある。
「これは失礼いたしました」
そのイゴールさんの声に、わたしはようやく見知らぬ女の人から視線を逸らす。
「貴女様にはご紹介していませんでしたな。こちらはエリザベス」
イゴールさんが云うと、エリザベスと呼ばれた女性は少し首を傾げ、「エリザベスでございます」と挨拶をしてくれた。その腕に、見たことのある分厚い本が抱えられていたことに気が付いて、わたしは少し眉をひそめる。わたしの視線に気付いたのかエリザベスさんは口角を持ち上げ、「弟がお世話になっております」と微笑んだ。
弟?口の中で繰り返し、わたしは眉を顰める。思い浮かんだのはテオのことだ。
ベルベットルームに訪れるといつも優しい笑顔で迎えてくれるわたしの案内人。どうして今日はいないのだろう。エリザベスの抱えている全書を見つめる。あれは、テオがいつも大切そうに持っているそれと同じもののように見えるけれどたぶん違うのだろうな、と根拠はないけれど何となく思った。
「それにしても不思議なこともあるものですなあ」
やはり面白そうにイゴールさんは云う。
「片方に生じた変化が、もう片方にも追随する…大変に興味深い」
「どういうことですか?」
「貴女にも、新しい力が使えるようになったということです」
「わたし…にも?」
「複数のペルソナ合体。それによって今以上に所有するペルソナの可能性が広がるでしょう」
「ちょ、ちょっと待ってください…!」
如何しましたかな、とイゴールさんは指を組み、そこに顎を乗せた。指で隠れた口が弧を描く。
「片方って、何のことですか?それってもしかしてわたしの兄のことですか?わたしにもって、綾人も同じ力を持ってるってことですか?!」
椅子から身を乗り出して一気に云い切ったわたしをイゴールさんは表情の全く読めない大きな眸でじっとわたしを見つめていた。まるでこのベルベットルームのように謎めいた底の知れない眸は、そうやって覗き込んでいると意識が遠退きそうになって、わたしは慌てて姿勢を正す。知りたいことは沢山あったけれど、焦ったって仕方ない。
わたしがずっと気になっていた答は、きっとイゴールさんが持っているとわたしは確信していた。
「綾人も…此処に来ているんですね?」
イゴールさんは肯定とも否定ともつかない曖昧な表情でゆるりと首を振る。
「もし、」口を開いたのは、エリザベスさんだった。
「もし、貴女のお兄様が私たちのお客様だったとして、それならば何故、貴女はそのことをご存知ないのでしょうか」
「それは…」
綾人が何も云わなかったからだ。と単純に思った。
綾人がオルフェウス以外を呼び出すところを見たことがない。それでもきっと綾人も複数のペルソナを持っているのだろうと何となく気が付いていた。そのことについて疑問に思ってはいたけれど、直接訊ねたことはない。訊くのが怖かったからかもしれないし、理由はよく、分からない。
わたしの考えを見透かすみたいにエリザベスさんは微笑む。
「何故、貴女に隠したのでしょうね」
エリザベスさんをぼんやりと視界に入れたままわたしはゆっくりと瞬きをした。
何故、なのかな。必死に考えてみるけれど全然分からない。でも、綾人のすることに意味がないとも思えない。きっと綾人にとって、とても重大な意味があるのだろう。と思う。けれど分からない。
「彼が云わないのならば、詮索すべきではない…のでしょうね」
窘めるように優しい表情でエリザベスさんは呟いた。抱えた全書の表紙にそっと触れる。
「でもっ…!それじゃあわたしはいつまでも綾人に置いていかれたままです」
わたしは綾人と対等でいたいのに。綾人を、守りたいのに。聞き分けのない子供みたいに喚いたわたしに、エリザベスさんは少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「私には、これ以上何も申せません」
(ただ、あの人の望むように…)
意識が遠退いていく中で、やはり悲しそうなエリザベスさんの声を聞いた気がした。