お気に入りのエコバックに最後まで残っていた蜂蜜の瓶を取り出して、もう片方の手で焼きたてのホットケーキが何段にも積み上がったお皿を持った。フォークとナイフくらいは指に挟めそうだと思ったけれど、どのみち蜂蜜を掬うためのスプーンも用意しなきゃいけないと気が付いて諦める。綾人が全部飲んでしまっていなければ、冷蔵庫に作り置きのアイスティーがまだあるはずだから後で一緒に取りに戻ろう。

夏休みに入って、なんとなく寮で過ごす時間が多くなった。連日のように暑い日が続いて外に出る気がしないというのも勿論大きな要因だったのだけれど、たぶん、ちょっと疲れてしまったのだと思う。何かを考えるのが億劫で、ぼんやりとしている時間が増えた。原因は何かなんて問われてもすぐには思いつかないし、そもそも最初からそんなものはないのかもしれない。
所謂気持ちの問題、というやつだ。なんとなく気持ちが付いていかない。もしかして無気力症ってこんな感じに似ているのかな、なんて考える。

テーブルにお皿と蜂蜜を並べるとすぐに踵を返し、冷蔵庫を開けに戻った。ひんやりと涼しい冷蔵庫の一番手前に、もう3分の1ほどしか残っていないアイスティーの入ったガラス瓶を見つけ取り出す。
冷蔵庫の閉まる音がキッチンに響く頃には取り皿とかフォークだとかを掴み、勢いよく躰を反転させた。

ぴたり、とテーブルの方向で動きを止めたわたしの前に、さっきまではいなかったはずの人がいる。さなだせんぱい。思わず口の中で呟いた。それが聞こえたわけではないだろうに、真田先輩は顔を上げる。


「ホットケーキか」

嬉しそうに真田先輩は少しだけ笑った。何度か瞬きをしながら先輩を見つめるわたしの思考は完全に停止している。どのくらいの間そうしていたか分からない。長い時間だったようにも思うし、一瞬だったようにも思う。
とにもかくもその後しばらくして正気に戻ったわたしは、ようやく状況を飲み込むと今度は思い出したように一気に体温が上がっていくのを感じた。どうしたら良いか分からず、慌てて俯く。そうしたらもう顔が上げられなくなってしまった。
ひどい不意打ちだ。
全くこの人は心臓に悪い。
イヤホンをして音楽を聴いていたから、その存在に全く気が付けなかった。

必要以上に手元を見つめ、両手を塞いでいたガラス瓶や食器を慎重にテーブルに置く。まだ心臓がばくばくしていて、収まりそうにない。いつまでも俯いているわけにもいかず、何気ない動作を装いに両手でイヤホンを外す。
恐る恐る視線を上げると、真田先輩は不思議そうに首を傾げていた。少し考えるように眉を顰め、そして何か思い付くことがあったのか、はっとした表情になる。

「分けて欲しいとか、そういうのじゃないからな!ただホットケーキだなと思っただけで…」
「は…?」

真田先輩の見当違いの慌てっぷりに、今度はわたしが首を傾げる。

「え、えっと、それは全然いいんですけど…」
「いい…のか?」
「はい」

わたしが頷くと、そうか、と真田先輩は顔を綻ばせた。そんなにホットケーキが食べたかったのだろうか。なんだか複雑だ。

「悪いな」と云う真田先輩に、「いいんです。たくさん作りすぎてむしろ困っていたくらいですから」とわたしは食器を取り出すためにまたキッチンに向かう。まだ心臓はいつもより早く鳴っていたけれど、真田先輩に背を向けたことで大分落ち着いてきた。

それにしても、とお皿とコップ、それにフォークとナイフを選びながらわたしは思う。真田先輩、タイミング良すぎるんだよなあ。

別に疚しいことなんて何もないんだけれど、ホットケーキを作りながらなんとなく真田先輩のことを考えていたから、何だか少し気まずい。
もっと正確に云えば、ホットケーキを作ろうと思ったのも、真田先輩が好きだと云っていたのを思い出したからかもしれない。
それにしたって、タイミングが良すぎる。いや、悪すぎる?


「そういえば、瀬田は夏祭りに行くのか?」
「はい?」

振り向くとほとんど同時に、瓶の開く小気味のよい音が鳴った。

「夏祭り」瓶を持ったまま、真田先輩はもう一度云う。
「夏祭り…」
「今度、あるだろ?長鳴神社で」
「はい」

それは勿論知っている。ついこの間もゆかりや風花と話をしていたばかりだ。風花も一緒に3人で浴衣を買いに行って、もし他に誰も行く人がいなかったら女同士で行くしかないね、なんて。

「真田先輩はどうするんです?」
「俺は…別に」
「誘われてないんですか?」
「ああ」

食器を真田先輩に渡しながらその表情を伺い見る。
真田先輩が意識するかどうかは別として、夏祭りなんで大イベントに真田先輩が誘われないはずはないと思うんだけど。それとも例のファンクラブに掟があるんだろうか。抜け駆け厳禁!みたいな。

「そう、なんですね…」

椅子を引き、真田先輩の向かい側に座る。
それじゃあ一緒に行きませんか。
今このタイミングなら全く不自然なく云えたのに、言葉だけ喉の奥に置き忘れてしまったみたいに、開いた唇から漏れたのは空気音だけだった。
あーあ。完全にタイミングを逃した。今更もう云えない。
わたしの、莫迦。


「もし、」
「はい」

2人分のグラスにアイスティーを注ぐと、ちょうどガラス瓶が空になった。どうぞ、と真田先輩にグラスを差し出す。それを一気に飲み干して、真田先輩はじっとわたしを見つめてきた。

「もし、他に予定がなければ…」

あ、やばい。
ようやく収まってきた心臓がまた高鳴り始めた。

これは、まさかのまさかですか。
期待してもいいんでしょうか。
肩透かしとかやめてくださいね。
立ち直れないので。







「俺と、一緒に行かないか」







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