旅行なんて正直気は進まなかったけれど、来て良かったのかもしれない。人気のない廊下を歩きながらぼんやりと思った。
あれだけギクシャクしていたみんなの仲が、少しだけかもしれないけれど、改善された。乗り越えた、と云ってもいいかもしれない。これからはまた、みんなでラウンジに集まってたわいない話で盛り上がることができるかな。なんて考えると頬が緩む。
それもこれも全部、風花や順平が気をきかせて場を取り持ってくれたお陰だ。そういえば、順平はいつの間にか以前のように話してくれるようになった。結局、どうして順平がわたしを避けていたのかは分からなかったけれど、順平の中で納得できる理由が見つかったのならそれでいい。

今、屋久島はちょうど何十年かに一度の日食があるとかで、どこも人でいっぱいだった。「普段はもっと静かなところなんだ」桐条先輩は申し訳なさそうに云ったけれど、わたしは少しくらい騒がしい方が好きだから逆に良かったかもしれない。だって、騒がしければ余計なことを考えなくて済むから。

けれど夜になるとやはり辺りはとても静かになって、桐条邸が海の近くにあるせいか、波の音が絶え間なく聞こえていた。
わたしたちが、つまり、わたしと綾人が幼い頃に住んでいた場所がやはり海の近くだったからか、波の音を聞いているととても落ち着く。幼稚園に通うような年齢だったわたしたちは理由もなくベランダに通じる窓を開け放ってはふたり並んで座っていた。その度にお母さんに怒られていたっけ。今は、もう叱ってくれる人がいない。

その時の癖は今もまだわたしたちの中に残っていて、波の音が聞こえると、引き寄せられるようにその音の一番心地良く聞こえる場所に向かってしまっていた。


階段を上っていくと次第に波の音がはっきりとしてきて、視界には波の満ち引きの如く揺れるカーテンが広がった。その向こう側にはバルコニーがあって、更にその向こうには水平線が見える。揺れるカーテンの隙間から、人の存在が見て取れた。勿論、それが綾人であることをわたしは知っている。

「順平が探していたよ」

闇に溶けてしまいそうな背中に向かって、声をかける。
重たいカーテンを潜り抜けた先は、ひたすら暗くて、景色なんて殆ど分からなかった。暗闇の中でただ波音だけが響いている。
月のない夜だ。曇っていて、本来なら天上いっぱいに散らばっているだろう星も全く見えない。そうだ、わたしたちは昔ベランダに並び、目を瞑って波の音を聞いていたんだ、と思い出した。まるで海の中にいるみたいだよね。幼いわたしたちは、ふたりだけの秘密事のように囁き合っていた。

「カラオケ?」
「うん」
「そんなの、幾月さんと順平がマイク離さないの目に見えてるし」
「確かに」

ちょっと笑って、綾人の横に立つ。中学生に入ったくらいまでは身長も殆ど変わらなかったはずなのに、今は頭ひとつ分くらい違う。それはどうしたって仕方がないことなのに、やっぱり、ごめん。寂しい。

「あとね、アイギスが探してた」
「アイギス…」

ため息混じりに呟く綾人の顔を覗きこんでみる。視線だけをわたしに向けた綾人は複雑な表情を浮かべていた。
綾人がこんな風に困惑する姿を人に見せるのは珍しい。いつもの綾人ならどんなことがあっても上手く切り抜けるのに。まあ、それも仕方ないか。なにせ対シャドウ兵器だと云う女性型ロボットに、突然愛の告白のようなものをされてしまったのだ。
わたしだったら、たぶん、しばらく何も考えられなくなってしまうだろうな。考えなきゃって思うのに、考えるそばから思考が抜けていってしまう無益な時間をたっぷり過ごして、そして結局、綾人に泣きつくのだろう。
綾人がそうでないのが、少し寂しい。わたしじゃ答えは出せないけど、話くらいしてくれたっていいのにね。
でも、綾人がわたしを頼ってくれないことは、やっぱり長い付き合いだから嫌ってくらいに知っている。いつも、頼るのはわたしだけだ。

「あのね、綾人」
「何?」
「んー、と…。なんか変だとわたしも思うんだけど、ね」
「うん」
「わたし、アイギスのこと知ってる気がする…」

云おうかどうしようか、悩んでいた。けれどひとりで悩んでいたって結局は答なんて出ない。はっきりとは覚えていないし、ロボットの知り合いなんているはずもない。でも、考えれば考える程、わたしはアイギスを知っている気がした。
もし本当にわたしがアイギスを知っていて、どこかで会ったことがあるという記憶が確かなら、綾人も知っているはずだから、綾人に訊くのが一番だと思った。だって、わたしたちは本当にいつも一緒にいたから。

けれど綾人は肯定も否定もせず、黙って今は真っ暗で見えない水平線を見つめていた。
その横顔をわたしは今までもずっと見つめてきた。普段は眠そうに伏し目がちにしている目が実は結構大きくて、長い睫毛に縁取られていること。それはわたしの目とそっくりで、綾人に見つめられると、鏡の中の自分に見つめ返されているような気持ちになること。
だけど今日は何故だろう。綾人の横顔を見ているとなんだかとても不安になる。綾人。何度も何度も呼んできた名前だ。たぶん、わたしが今までの人生の中で一番口にしてきた言葉なんだろう。綾人。それはわたしの中で魔法みたいな言葉だった。

「ね、里綾」

綾人の中の一番もわたし、かな。そうだったらいいのに。そう思う反面、違ってほしいな、なんて身勝手なことを思う。
綾人はきっとわたしみたいに弱くない。だから、わたしに頼ったりしない。ずっとそうだった。たぶん、これからも。

「里綾」

もう一度わたしの名前を呼ぶ綾人の口調はとても優しかった。なあに?答えたわたしの声が震えていて、わたしは驚く。そうか、わたし泣いていたんだ。

綾人がわたしの手を取った。いつかみたいにその手を引いて、わたしが迷わないように連れて行ってくれるの?綾人は何も云わず、繋いだ手を見下ろしている。まるで、お互いの存在を確かめているようだった。

「俺は…里綾がいれば、大丈夫だから」

自分に云い聞かせるみたいに綾人は云った。

「里綾さえいれば…それでいいから」

わたしだって、同じだよ。綾人さえいてくれたら、それでいいよ。わたしが云うと、綾人は困ったように笑った。
どこか寂しそうなその顔を見つめながら、もしかしてわたしの涙は泣けない綾人の変わりに流れたものだったのかな、とぼんやり考える。


ごめん、と綾人が呟いたように聞こえたけれど、きっと気のせいだ。月のない暗闇と波の音があらゆるものを違えてしまったに違いない。







人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -