「大丈夫ですか?」
ベルベットルームに入るなり、テオがいきなりそう訊ねてきた。
「え、何が?」いつものように椅子を引いてくれるテオに促されて、高級そうな椅子に体を沈める。水底のように静かで、水面のように明るい部屋をぐるりと見渡す。今日はどうやらイゴールさんはいないようだ。不思議だなと思ったけれど、そもそもこの部屋に普通なんて言葉は当てはまらないのだと思い出した。

ポロニアンモールの裏路地にひっそりと佇む扉に触れた時、わたしはテオと話がしたいと思った。その気持ちが部屋に現れたのかもしれない。そんなことが本当に出きるかどうかは別として、実際に今、この小さな部屋にはわたしとテオしかいない。少しだけほっとしていた。
テオはわたしの側に立ったまま、穏やかに微笑んでいる。

「何か、ありましたか?」

頭上から降ってきた優しい言葉に思わず泣きそうになった。テオがわたしの目線に合う位置にいないのは、もしかしてわざとなのかな。あえてわたしの顔を見ないようにしてくれているのかな。なんて。

「別に、何もないよ」
「そうですか…それなら、いいのです」

きっと今テオの顔を見たら泣いてしまうという予感があったから、わたしは俯いたままじっと膝で組んだ手を見つめていた。

わたしは何をしに来たのだろう。テオの依頼を済ませたわけじゃない。新しい依頼を聞きに来たわけでもない。ペルソナの為に来たわけではないのは、此処にイゴールさんがいないことからも明らかだ。
そんな大した理由もなくやって来られたらテオも迷惑なんじゃないかと今更思ったけれど、テオは今日に限って、「本日は何の御用でしょうか」とわたしに訊ねなかった。もしかしたらテオには全て分かっているのかもしれない。逃げるようにこの部屋にやってきたことも、全部。

「随分とお疲れのようですね」
「そう?試験中だから、かな」
「なるほど。学生、というのは大変な職業なのですね」
「うん。まあ、ね…」

疲れてる…そうかも。春に月光館学園に転校してきてから数え切れない程多くのことが起こりすぎた。
大変だったし、辛いことも勿論幾つもあったけれど、嫌ではなかった。投げ出したいとも思わなかった。思わないようにしてた、のかな。思っちゃいけないって勝手に決めつけていた、のかな。よく分からない。

「里綾様、」

テオの声は波音に似ている。ぼんやりと考える。静かで、穏やかな日の波の音。優しくて、心地良い。

「以前、貴女にいただいたもののお礼がまだでしたね」と、テオは机に小さな缶箱を置いた。以前、とは何だろうと顔を上げると、想像通りのテオの穏やかな顔があった。そういえば料理部で作ったクッキーをテオにプレゼントしたんだっけ。

「そんなの、いいのに」
「いいえ。そういうわけには参りません」

とても美味しかったですよ。その時の味を思い出すように目を伏せ、テオは微笑んだ。

テオが置いた小さな缶箱からは微かに良い香りが漂っている。開けてもいい?訊ねると、テオは「どうぞ」とわたしにその缶箱を持たせてくれた。両手に乗ってしまう大きさのそれはひんやりと冷たい。テオに渡されたナイフで蓋を開けると、途端、花の甘い香りが部屋にふわりと広がった。







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