COLEUS


最後の段を勢いよく踏み込み、慶次は冷たいドアノブを押した。

目の前に広がるのは風に靡く白いシーツ。昨夜の雨が嘘だったかのように青く晴れ渡った空。薄暗い建物の中とは全く別の世界のようだった。
見上げていると吸い込まれてしまいそうな一色の空に向かって慶次は息を吐く。周囲に他に高い建物がないせいか、ひどく空が近く感じた。これならば、いつか空が落ちてくると云われても、信じられるかもしれない。

視界の端で何かが動いた。意識だけをそちらに向ける。元々、その人に用があって屋上まで上がってきたので、その存在自体には驚きはしない。ただ、少しだけ緊張した。頭の中を急いで整理する。

「おはよーございます」

呼びかけられた声にゆっくり視線を下ろせば、ちょうどはためくシーツの間に、大きな籠を片手に持った赤い髪の男が立っていた。人の良さそうな笑みを浮かべて慶次を見ている。日の加減でその髪色は、明るい橙色にも見えた。

「朝早くからごくろーさまです、捜査官」
「ええと…猿飛?」
「はいはい」
「その、捜査官って止めてくれないかな。そう呼ばれるの、あまり好きじゃないんだ」
「でも、実際に捜査官なんだし」

佐助は笑ってシーツを潜り抜け、慶次に近付いた。慶次の方が幾分か背が高い為、慶次が彼を見下ろす形になる。

「別に嫌味とか、そんなじゃないよ。でも捜査官になんてそうそうお目にかかれるものじゃないし、それに何でこんなところに来たのかなあって、ちょっと興味があっただけ」

佐助の表情は崩れなかった。彼の浮かべる笑みからは、本当に少しの悪意もないように見えたが、慶次は何故かひどく落ち着かなかった。

「前田慶次って云うんだ、俺」

探るような言葉も、無意味だと知る。
そもそも、そういった微妙な駆け引きが得意な方ではない。ただ、彼と同じようなタイプの男を知っていた。表面上は人当たりの良い印象を演じ、腹の内は決して明かそうとしない。そういう友人が、慶次にもいる。だから、その難解さも、脆さも、知っていた。

「じゃあ前田捜査官だね」と佐助は云った。慶次が怒るのを楽しんでいるようだった。

「俺、確かに捜査官なんて肩書き持ってるけど、別に捜査で此処に来たんじゃないから」

髪に手を通して、面倒くさそうに空を見上げる。簡単に欲しい情報が手に入るとは思っていなかったけれど、まともな会話すら成立させるのが難しいとは思わなかった。本当に興味があるのかは疑問だったけれど、佐助はその先を促すように「ふうん」と口端を持ち上げる。

「じゃ、どうして?」

時々、自分の発した一つの言葉から、相手は幾つもの情報を得ているのではないかと思うことがある。何か一言でも喋らせられれば必要な情報は得られる、という特技が存在するのかどうかは分からないが、今目の前にいる男には、それが出来るような気がした。

「知りたいことがあったんだ、個人的に」
「そ、個人的に…ね」

意味ありげに頷き、佐助は視線を逸らした。

はたはたとシーツは音を立て、遠くで木々が大きく揺れていた。風に乗って、車の音や人の音も聞こえてくる。全てが曖昧で、非現実のものに感じた。今居るこの場所から切り離された、別の世界の音なのではないかと錯覚する。或いは、時間の流れすら異なっているのではないか。
まさか、と慶次は首を横に振る。佐助が不思議そうに首を傾げ、そして笑った。

「ねえ、捜査官。知らなくて良いことは、世の中に幾らでもあるんじゃないのかなあ」

そう云って佐助が視線を向けた先で、しっかりと留めてあったはずのハンカチがふわりと宙に舞った。それを掴まえようとするでもなく、ただ視線で追う。風に乗って、それは屋上から離れていった。まるで蝶だった。空に溶けてしまったかのように、見えなくなる。

「俺は…何よりも大切な人を、殺すつもりだった。そうする前に死んでしまったのだけど。ね、そんなこと、知らない方が幸せでしょ?」

相変わらず佐助は笑っている。本当に笑っているのだろうかと思ったが、今の慶次に確かめる術はない。
佐助の言葉の真意を量りかねた。如何して突然そんなことを云ったのか。何を伝えようとしたのか。きっと佐助はそれ以上何も云ってはくれないだろうから、今はただその言葉を記憶に刻み込む。いつか、分かる時がくるかもしれない。

「知らない方が幸せだなんて、云い切れるのかな」

佐助の眸をまっすぐに見つめながら慶次は云った。

「そんな風に、云い切れるものなのかな。例え、嘘で固められた現状がどんなに幸せそうに見えても、それはやっぱり、嘘でしかないだろ」

だからと云って、全てを知ることが幸せだとも、やっぱり断言できない。所詮は、綺麗事なのかもしれない。
佐助は黙っていた。反論するでも、笑い飛ばすでもなく、ただ考えているようだった。シーツのはためく音ばかりがやけに耳に大きく聞こえた。

「アンタに良く似た人を、俺は知ってるよ」そして彼は、どこか諦めにも似た笑みを浮かべる。「俺はその人がいつか、世界を変えてしまうんじゃないかと思っている」
佐助の眸には先程までには見られなかった穏やかさがあった。だから、きっとその人は彼にとってとても大切な人なのだろうと思う。

「アンタにも、変えられるのかもしれないね」
「何を?」
「人を」
「人…?」

彼は双眸を閉じることで肯定し、籠を持ち直して慶次の横を通り過ぎた。これ以上佐助を呼び止める理由もなくて、慶次はじっと足元を見つめる。


「毛利さんには会った?」

ドアの前で突然、佐助は振り返り、慶次の背中に向かって呼びかけた。

「毛利?」
「そう、毛利さん。多分部屋に居ると思うよ」

そして佐助はにっと笑い、建物の内へと続くドアを開ける。その後ろ姿をぼんやりと眺めていた慶次の耳に鼻歌が聴こえてきて、はっとした。どこかで聴いたことがある曲だった。
誰かが、どこかで、弾いていた、曲。
慶次には音楽の良し悪しなどはさっぱり分からなかったが、その曲はとても好きだった。その奏者が奏でる音はひどく優しくて、その人の容姿からは想像も出来ないほど繊細な音。それがなんという曲だったのか、訊いたはずなのに忘れてしまった。あんなに印象的だったはずの男の顔も。

建物に消えていこうとする佐助を制止しようと声を発したが間に合わず、ドアは重い音を響かせて閉じられた。








コリウス/絶望的な恋









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