KOCHIA



「俺、多分人を殺したんだと思う」

何の冗談かと思った。冗談でなければ何かの比喩だ、と思った。
まるで退屈な雨の夜の座興のようだった。彼から発せられた言葉からは、深刻さも陰鬱さも感じられなかった。
殊更ゆっくりと佐助は視線を上げる。壁に肩を預けた政宗は、雨水に濡れた窓の向こうを見つめていた。その眸は深く沈み、この世の何ものも映してはいないようだった。彼が云ったことは、或いは、真実なのかもしれないと、ぼんやり思った。だからといって、別に驚きもしなかった。彼の左手の指に挟まれた煙草から、細く煙が上がる。その煙の先を見つめながら、佐助は静かに息を吐いた。

「本当に人を殺したのなら、『思う』なんて曖昧な言葉は使わないんじゃないかな」

独り言のように呟いて、読みかけの本にポストカードを挟む。碧の湖と白い山、そして中央に写る小さな十字架。恐らく教会のような建物の中から撮影されたものなのだろうと推測はできるが、それが何処に存在するのかは分からない。忘れてしまっているだけで、本当は知っているのかもしれない。なんとなくそう思ったが、どうにも思い出せなかった。
分かるのはただ地球上の何処かに、こんな場所が存在しているのだということだけ。そしてその、何処とも知れない景色を写した一枚のポストカードを、何故かとても大切にしているという事実。自身で買った記憶は無いから恐らく誰か、とても大切な誰かから貰ったものなのだろうと―ぼんやりそう思っていた。

「大体さ、『思う』なんて云うってことは、はっきり覚えてないってことでしょ」
「誰かを殺したってことはな。…だけど、覚えていることもある」

本をベッドに置いて立ち上がれば、古びたベッドはギィと鳴った。相変わらず窓の向こうに視線を向けている政宗は、佐助がすぐ傍に立っても、意識を向けてくれることすらしない。政宗の髪に触れる。それすら何も感じていないように、政宗は瞬きすらしなかった。黒鳶色の髪は、湿気のせいかいつもより幾分か重みがあったが、するりとあっという間に指を抜けていく。

「右手に、」

言葉と同時に右腕を伸ばす。上に向けた掌を、軽く握ってそして開くその動作は、まるで意思通りに指が動くのを確かめているようだった。佐助もその手に視線を向ける。

「銃を持っていた。どんなタイプだとか詳しいことは分からねェ。そもそもそんな知識はない。それと…」

そこで政宗は隻眼を伏せ、しばらく沈黙した。長い睫毛が微かに揺れる。その先の言葉を口にするのを躊躇っているのか、それとも言葉を探しているのか佐助には分からない。深く息を吐いて、ようやく政宗はその視界に佐助を捉えた。

「一面が、赤く染まっていた」

囁くように、しかしはっきりと云って、政宗は笑った。自身を嘲笑うようにも蔑むようにも見えたその笑みが何故か、ひどく穏やかなものに思えた。
佐助はただ、「そっか」と呟く。それ以上の言葉は必要ないように思えた。たとえ政宗が本当に人を殺していても、そうではなくても、今ここで発する言葉に何の意味もない。政宗も、そんなものを必要とはしていない。

「…俺の大切な人も、銃で死んだよ」

どうしてそんなことを口にしてしまったのか、佐助には分からなかった。
その言葉を口にした途端、記憶が際限なく蘇って佐助は思わず顔を顰めた。忘れようとしたって忘れられないだろうと思っていたのに、無意識に押し込めて封印してしまっていたらしい。そして、無理に笑う。

「もしかしたら、」

政宗の眸を見つめる。髪と同じ黒鳶色の眸は、部屋の明かりを受けても、尚も暗い。多分この瞬間だけは、彼の眸に佐助だけが映っているだろうと思った。

「政宗が殺したかもしれないというその人は、俺が何よりも大切にしていた人かもしれないね」

政宗の表情が少しも変わらないのを見て、佐助はゆっくりと双眸を閉じる。その双眸を開いた時、自然と口端が持ち上がっていた。

細く、白い煙が立ち上る。窓を叩く雨音が煩いばかりの部屋は、広いばかりで、ひどく殺風景だった。ベッドに机、それに本棚しかない。そこに流れる時間は、他のどの空間よりも遅いように感じた。時間は人に等しく流れているけれど、平等ではない。そう云っていたのは誰だったか。せめて彼とくらいは共有していたいと思ったが、その為に何をしたら良いのか分からない。

「政宗」

煙を吐き出す唇を横から塞ぐ。苦く、冷たい唇だった。何の抵抗も、また催促もない。ただ重ねただけの唇を、音を立てて離した。無表情に佐助を見つめる政宗に微笑みかけて、自身の唇を親指でなぞる。

(大切な人も大切な物も、いつか風化して、記憶からも消え去って、また何事もなかったように生きていけちゃったりするのかな)(そんな日が、いつか来てしまうのかな)

それを望んでいるのか、拒んでいたいのか。それすらも分からない。

深く息を吐き、窓の外に視線を向ける。
雨が強く叩き付けている窓の先に、ぼんやりと明かりが浮かんだ。すぐに車のライトだと分かった。雨音に交じってエンジン音が聞こえる。


「…あいつ…警察の人間だな」

政宗が呟いた。ヘッドライトが消えると外の景色は再び暗闇に包まれる。エンジンが切られ、雨音のみが響いていた。大きな傘が暗闇に開く。来訪者は一人らしい。

勢いよく閉められたドアの音を遠くで聞きながら、佐助は政宗の指から煙草を奪った。








コキア/私はあなたに打ち明けます









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