SANDERSONIA



丁寧な言葉で流れるアナウンスの途中で通話終了のボタンを押し、小十郎は運転席のドアを押し開けた。

周囲の木々がざわざわと揺れ、冷たい風が抜けていく。まるで突然やってきた来訪者に戸惑い、様子を伺っているかのようだった。それら全てに対峙するみたいに小十郎は顎を上げる。視界に入った空はきれいな青色。朝と呼ぶには遅く、昼と呼ぶには若干早い時間帯。空気はまだひんやりと冷たく澄みきっているのに、空からは暖かい日差しが降り注いでいる。その空の眩しさに目を細め、小十郎は運転席のドアを閉めた。異質な音は大きく響き、そしてしんと静かになる。音が吸い込まれてしまったかのように、一切の音が聞こえなくなった。

目の前の古い建物に視線を向ける。人の来訪を拒むかのような雰囲気を持つそれは、ホテルというよりフラットのような外観を持っている。最上階に屋上を備えた造りから考えても、当初から共同生活を目的として建造されたものなのだろうと小十郎は思った。
その建物のすぐ傍に車が一台止まっている。それが同僚の車だということはすぐに分かった。見間違えるはずもない。彼が中古で買ったのだと自慢げに語り、乗客第一号としてドライブに誘われたのはつい最近の話だった。車体がひどくみすぼらしく乗り心地も最悪でエンジンもすぐにはかからない。今にも煙を吐いて止まってしまいそうな車だったのに、一応まだ動いていたらしい。

やはりここに来ていたのか、小十郎はもう一度建物を見上げた。

甲高い機械音が鳴る。
コートのポケットから携帯電話を取り出し、視線を建物に向けたまま応答ボタンを押した。
相手が誰かはディスプレイを確認しなくても分かっている。だから第一声でまず文句を云ってやるつもりでいた。何度もかけたのに何故出なかったと詰ってやるつもりだった言葉を、だがしかし小十郎は飲み込む。小十郎が怒鳴るより先に、「すんません」と覇気のない声に謝られてしまったからだ。普段なら電話を耳から少し離すくらいが丁度いいくらいの相手が、慎重に音を拾わなければ聞き逃してしまいそうな声音で喋っている。小十郎は眉をひそめた。

「今どこにいる?来ているんだろう?」

電話からは何も聞こえてこない。
長い沈黙。
小十郎はますます眉をひそめた。何があった?問おうとしたが、その前に相手が話し出す。

『片倉さん、もう来てるんすよね。すぐ出てくんで、待っててもらえます?』

そして小十郎の答えを聞く前に、通話は切れた。
一方的に通話が切られた小十郎はしばらく携帯電話を耳に当てたままぼんやりしていたが、ふいに我に返り、携帯電話を握っていた手を下ろす。視線を落としたディスプレイには通話終了の文字が浮かんでいた。
何があった?問えなかった疑問を、声には出さず呟く。
ディスプレイが切り替わり、AM11:00と表示された。

携帯を再びコートのポケットに突っ込む。考えを振り払うように頭を数回振った時、同僚の古いセダンの助手席に花が無造作に置かれているのに気がついた。
近づいて車内を覗き込む。黄色い小さな花がいくつもついている。揺れると鈴のような音が鳴りそうな花だった。この花の名前は知っている。

祈り―彼はそう云った。
古い記憶だ。
違う、頭の隅で思う。

実際は、古いというほど昔ではない。過去として風化したい記憶なんだ。冷静に判断する。

―これが鳴ったら届くのかねえ、神サマに。
―それとも神サマにだけは聞こえるのかなあ。…まあ、どっちでもいいか。
彼は穏やかに笑った。

そして、ひとしきり手の中で遊んでから小十郎に手渡し、

―ごめんな。

と小さく呟いた。その言葉が一体何を意味するのかその時の小十郎には分からなかった。分からないまま彼が車から降りていくのを見送った。彼の背中が小さくなり、次第に見えなくなった頃、手元に残ったこの小さな花が小さく揺れた。揺らしたのかもしれない。その辺りはよく覚えていない。ただ、やはり何の音もしないのだなあと思ったことは確かだ。当たり前だ、小さく笑って花を助手席に置いた。その弾みでひとつ、花がぽつりと落ち、転がった。

その時になって初めて、そう、その時になってようやく、携帯していたはずの銃がなくなっていることに気がついたのだ。

―ごめんな。

ああ、このことか。

そう気づいた時には、もう遅かった。
それ以外の、もっと重大な意味があったことに気がついたのは、更に後の話だ。



「片倉さん」

呼ばれて、ゆっくりと顔を上げる。
建物の前に前田が立っていた。ひどく疲れた顔をしている。なんだその顔は、笑ってやろうとして気がついた。どうやら「疲れた顔」をしているのはお互い様だったようだ。困ったように笑って、前田はキーを投げて寄越す。小十郎はそれを片手で受け取り、ドアを開けた。
助手席の花は、花束というほどの量ではなかった。

「サンダーソニア…」
「ん?」

身を起こして前田を見る。
曖昧に笑って、彼は小十郎の手の中の花を見つめた。

「イメージじゃあないね」
「…そう、だな」

小十郎も笑って見せた。

「こんな可愛らしい花とは、違うだろうな」

建物の扉が開く。男が一人出てきて、明るい外の日差しが眩しいのか、一瞬扉の傍で立ち止まって空を見上げた。その後から二人、合計三人。皆、小十郎も知っている者たちだった。
目を細めて彼らを見る。懐かしい感じがしたのだ。随分顔を合わせていなかった気がする。
そのうちの一人が小十郎に気付いて、やはり曖昧に笑った。
誰もが疲れた顔をしていた。
中途半端な表情と表現する方が適切かもしれない。驚くにも、笑うにも、中途半端。感情の半分をどこかに置いてきてしまったような表情。

「行くか」

前田に声を掛けた。
彼は後ろの三人を振り返り、小十郎を見る。小十郎は頷いて、彼らに背を向けた。
また強い風が吹いた。
小十郎の手にあるサンダーソニアが揺れる。
鳴るはずのない鈴の音が、聞こえたような気がした。








サンダーソニア/祈り、望郷









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