覚えていないのなら、それが一番幸せだ。

傷だらけの顔で、美鶴さんが微笑む。
頷く真田先輩。きょとんとする時任先輩に呆れなかったといえば嘘になるけれど、『覚えていないのが幸せ』というのを否定する気はなかった。

終わりの欠片は、消滅した。
真田先輩の決死の思いと、ゆかり先輩が振り絞った、勇気の力で。

「でもさ。本当に当たったね、彼方ちゃんの勘」
「え?」

バイクを置いて飛んできた美鶴先輩を加えた五人で夜道を往く。
ひそひそと時任先輩に聞こえないよう気遣った声量で言うゆかり先輩に、首を傾げた。

「ほら。時任先輩が来たときさ、『いやな予感がする』って」

「ああ!言いましたね、そういえば」

「そういえば、って」

ゆかり先輩が苦笑して、前を歩く時任先輩に目を向ける。

「彼方ちゃんがいなくなった後さ。寮に残ってた人に聞いたんだ。
 私はどうすればいいか、って。…そうしたら、自分で決めろって言われた」

寮に残ってた人、とは荒垣先輩のことだろう。
思い返せば荒垣先輩は、ゆかり先輩がタルタロスで矢を射った後も彼女から逃げるように立ち去ってしまっていた。自分の顔を見ることで、ゆかり先輩が怯えることを危惧したのだろうか。

「だからね。あそこに行くの、怖かったけど…自分で決めたんだ。
 逃げてばっかりじゃ、何も変わらないって思ったから」

「…うん。来てくれて嬉しかったし、助かったよ。ゆかり先輩」

心の底からそう思って、再び頭を下げる。
改まった態度にゆかり先輩は慌てたものの、嬉しそうにうつむいて、ありがとうと呟いた。

「おい、彼方に岳羽!遅いぞ!」
「あ、ハイ!急ぎますー!」
「…やたら元気だなー、真田先輩…」

羨ましくはないけど。

ゆかり先輩に手を引かれながら、先で待つ先輩たちに駆け寄る。
疲労で重たい足がつんのめりそうになったものの、気分は不思議と軽かった。

「真田先輩!わたし、今はカレーの気分なんですけどっ」
「なに…?牛丼屋だというのに、カレーまで置いているというのか!?」
「え、桐条さん?ちょっと驚きすぎじゃないのかな」
「ていうか、こんな時間に肉プラス炭水化物とか太っちゃいそうだなー」

姦しく騒ぎながら、真田先輩を取り囲む。
傍目から見たらとんだハーレム状態だろうが、そこは流石の真田先輩。
そんなことは意にも介さず、「海牛でカレーなぞ邪道だろう」と胸を張った。

「折角奢ってやるんだ。もっと嬉しそうな顔をしろ」

「…ゆかり先輩。こうなったらもう、翌日胃もたれるくらい食べたろーぜ」
「それは嫌だ」
ゆかり先輩の即答に、時任先輩が噴き出す。
それは隣に立つ美鶴先輩へと伝染し、真田先輩へ伝染し。気付けば、わたしやゆかり先輩も声をあげて笑っていた。

あまりに笑いすぎたせいで、巡回中の黒沢さんに叱られたことは、言うまでもない。

補足になるけれど。
この日を境にして、時任先輩が影時間に迷うことはなくなった。
記憶と同時に適正も失ってしまったらしく、翌日の影時間ではきっちりと棺桶に『象徴化』していた。
寮内に佇む、赤黒い棺桶。
時任先輩と同じ背丈のそれを眺める真田先輩の顔は嬉しそうで、それと同時に寂しそうにも見えた。

「残念ですか?仲間が増えなくて」

ラウンジで棺桶を眺めている真田先輩の横顔に声をかける。
ゆっくりとわたしに向き直った先輩は、微笑を浮かべながら首を振った。

「いや。そもそも俺は、最初から先輩を巻き込むのは嫌だったんだ。
 …それに、仲間が増えなくて残念なのは彼方のほうじゃないのか?」

「うん?」

「タルタロス探索の件だ。仲間が増えなければ、奥まで行けんだろう」

「…ああ。なるほど」
すっかり忘れていたが、確かにそういう話だった。
近くにあったソファに腰を下ろしながら、佇んだままの真田先輩を見上げる。
「大丈夫ですよ。きっと近いうち、増えますから。仲間」
ゆかり先輩も、今回の件でかなりの覚悟が固まったように見えた。
彼女が前線に出てくれれば、タルタロスの探索も許可されることだろう。

「そうか。楽しみだな」

「出番、取られないように頑張らないとですね」

「抜かせ」

笑う真田先輩から目を背け、窓越しの月を見上げる。
不気味な緑の空に浮かぶ、大きな月。普段ならば気味悪く思うそれを、今日ばかりは綺麗だと思った。

―…数日後の、とある夜。わたしたちが"運命の出会い"を果たすことは、未だ誰も知らなかった。

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