もしも、誰かひとりを自由に殺害する権利が与えられたなら。
私は迷わずこの女を殺しましょう。

「なんだ?名前。あたしに文句でもあんのか?」
「滅相もありません」

輝かしい笑顔で大剣の柄を握るカンタビレ師団長。
私も輝かしい笑顔で応えたつもりなのですが、口元やら何やらが引き攣っているのはどうかご容赦願いたいものです。

「ただ、そうですね。質問よろしいでしょうか」
「言ってみな」
得意げに頷きつつ、にやりと口角を上げるカンタビレ女史。
ぶちりと私の中の何かが切れましたが、相手は上官。頭ごなしにブチ切れては無職になってしまいます。

「どうしてこの量の書類を、私に渡したんですか?」

私の手の中には、百枚はゆうに越えている大量の書類。
超重い。超でかい。抱えているだけで足元がまったく見えません。
必死に激情を抑える部下を前に爽やかに笑ったカンタビレ女史は、「罰に決まってるだろ」とあっけらかんと言い放ちました。

「罰だなんて酷いじゃないですか。私が一体なにをしたって言うんです」
「第六師団の定例会議をすっぽかしただろ」
「…」
「あと、リグレットの奴にあたしの悪口を言いふらしてた」
「……」
「さらには…」
「了解です師団長、喜んで行かせていただきます!」

段々と笑みが消え、目が胡乱になっていく彼女のなんと恐ろしいことか。
脱兎のごとくとはまさにこのことです。
必死に身を翻して上官の自室から転がり出ると、手元の書類が質量を増したような気がしました。

…り、リグレットの件はなんで知ってるんだあの人。
今朝から機嫌が悪いと思っていたら、あのことがバレていたからなのか。

「……はあ。これ配ってこいって普通に無茶振りじゃないですか…」
人気のない廊下まで移動し、書類を検める。
どうやら百枚以上はあるものの、渡す相手は数人のようでした。
けれど…なんといえばいいのでしょうか、その『数人』の人選が絶対におかしい。

ラルゴ。ディスト。リグレットにヴァン。

神託の盾騎士団、重鎮勢ぞろいです。
「…あの女、自分が折り合い悪いからって私に丸投げしやがったんですね」
怒りを通り越して呆れちゃいますね。

深々と息をついて、床へ降ろしていた書類を持ち上げます。
ラルゴやリグレットはともかく、ヴァンは会いたくないのですが…仕事となれば致し方ありません。
さっさと済ませて、帰って休もう。

そう決心した私は、無人の廊下を闊歩します。
暫く歩けば、数人の巡礼者とすれ違い。そして騎士たちともすれ違いながら、最初の人物の自室前へ立ちます。

「…………あっ」
そういえば両手がふさがっていたんでした。これではノックができません。
どうしましょうか。ノック無しで上官の自室に入るなど言語道断です。けれど、書類をまた床に降ろしてしまうのも如何なものか。
「…」
数秒の思案ののちに、辿りついた結論。
そうですね、こうするしかないですものね。

「すみません、失礼します。スプレッド!」

唐突に噴き出した激流が、簡素な扉を内へ向けてぶち破ります。
「ギャアアア、っがぼがぼ!げほっ!」
すると、水浸しの室内から溺死寸前の断末魔が聞こえてきました。

「ああよかった。いなかったらどうしようかと思ってましたよ」
私としては珍しいくらい穏やかに微笑みながら、濡れた床を踏みしめて入室します。
薄暗い室内と、独特のにおい。
機械っぽいものに埋もれていた部屋の主が、勢いよく上半身を起こしてきました。

「なな、なにをするんですかっ!ノックも無しに、非常識にもほどがあります!」
「え?ノックした後ならいいんですか?」
「キィィ!悪いに決まってるでしょうっ!!」

支離滅裂ですねえ。
全身をずぶ濡れにした"死神ディスト"の慣れた反応を受け流しつつ、水の被害を受けなかった机の上へと書類を降ろします。
あー、重かった。

「だいたい何なんですか貴女は!絶対に入らないようにと注意書きがしてあったでしょう!まさか見なかったとでも!?」
「え?いや、見ましたけど。別に守らなくていいかって」
「私を馬鹿にしてるんですか!?」

ヒステリックに叫びつつ、びたびたと私の傍まで進み出てくるディスト師団長。
間近で見るその顔には、特に感じるものはありませんでした。

「…貴女。確かこの前会った、アニスの友達の…」
「え?」
ああ、そういう認識なんですか。
どうやら名前が出てこないらしく、頭を抱えて唸り始めるディスト。

「あーっと、私はですね、」
「言わないでください!今思い出すところなんです!!」
見かねて名乗ろうとすると、全力で睨みつけられました。面倒臭い人ですね。

「アンジェリーナ…」
そんなきらびやかな名前じゃありません。

「…サム…?」
それは男性名ではないのですか。

だんだんとイライラしてきた私と、それでもなお思案を続けるディスト。
その後も私とは似ても似つかない名を並べていた彼ですが、数分後、パッと表情を華やがせました。
…おっと。これは、来ましたかね?

「そうです!貴女は名前、名前・名字!ですね!」

「…ええはい、正解なんですが…そんなに誇らしげに言われても困ります」

私の名前はそんなに覚えづらいのでしょうか。
なぜだかものすごく疲れました。徹夜明け並に疲れました。

飛び上がらん勢いではしゃぐ成人男性に、とりあえず無機質な拍手を送ります。
気持ち良さそうにそれを受けていたディストでしたが、暫くしてからはたと我に帰った様子でした。

「そういえば、名前。あなたは一体なにをしに来たんですか?」
「……」

突っ込むの、遅いよ。
思わずがっくりと肩を落としてしまいつつ、傍らに山積まれていた書類から数十枚を抜き取りました。
「…こちらを、お届けに来ました。どうぞ」
「おや、そうだったんですか。ご苦労さまでした」
今までの悶着を、まるで無かったかのようにあっさりと受け取ってくれました。

では、この部屋での用事は終了です。
再びディストが現実に戻り、破壊された自室に気付く前に退散いたしましょう。

「それでは"薔薇の"ディスト様、私はここらで失礼いたします」
「!!…も、もう帰るのですか?そうですね、貴女がどーしてもと言うのならお茶の一杯でも…!」

気分を良くしたディストが振り返る。
お茶の一杯だなんてご冗談を。この凄惨な部屋の何処で、そんなものを製造するのですか。

「…………」
「…………」
振り返ったままの体制で硬直しているディストを前に、人知れず目線を逸らします。
そして即座に書類の山を抱えあげて、先ほどまで扉のはまっていた場所へとダッシュしました。

「コラアアアッ!待ちなさい、名前っっ!!」

聞こえない聞こえない。

後方からの怒号(というよりもわめき声)を足早に遠ざけた私は、次の目的地へと向かいます。
…ええと、ディスト以外には誰に会えばいいんでしたっけ?


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