休日の部室は、恐ろしいほどに人がいない。
目の前のサンドバッグだけを見据えて、ただひたすら拳を打ち込む。その単純作業を、いったいどれ程の時間こなしたのだろうか。
ふいに吹き込んできた涼風と、扉の開く物音に顔を上げる。
入り口のほうへと首を捻れば、そこには随分と久しい顔があった。
「御倉じゃないか」
思わぬ来客に驚き、肩にかかっていたタオルで額の汗を拭う。
「相変わらず汗臭い部室ですね。窓、開けたらどうですか?」
顔をしかめて暴言を吐きながら、部室中央のリングまで歩み寄ってくる御倉 暦。
ひとつ年下のこの後輩は、去年俺が世話になったとある先輩の昔馴染みで、多少の面識がある。
先輩が卒業してからはめっきり顔を合わすこともなくなった彼女が、何故ここにいるのか。
その疑問は、俺が訊かずとも勝手に話してくれるだろう。
「わざわざ来て正解でした。…どうぞ。真田先輩」
無遠慮に部品のベンチへ腰掛けた御倉は、傍らの通学鞄から一通の封筒を取り出す。
『明彦くんへ』。女らしい、細い字で書かれた宛名に、思わず目を瞬く。
「時任先輩からか?」
「はい。なんか、手違いで私の家に届いてました」
勿論中は見てません、と余計な補足をしながら俺に封筒を差し出す御倉。
手紙だなんて珍しい。今は大学生となって巌徒台を離れている先輩だが、俺の携帯番号もメールアドレスも知っているというのに。
即座に封を切ろうと指先に力を込めれば、御倉の細い指がそれを制す。
「電話やメールじゃ伝わらない内容なんじゃないですか?
ちゃんと自室に戻って、ゆっくり熟読すべきだと思いますよ」
「…そういうものなのか?」
「そういうものです」
妙に確信じみた声音。その根拠もないだろう自信は何処から来るのだろうか。
「…御倉、お前、時任先輩に似てきたんじゃないか?」
「マジっすか」
感情の読めない平坦な声で応答し、御倉はつまらなそうに部室内を一瞥する。
そしてふいに立ち上がり、迷いない足取りで出口へと向かった。
「待てよ。もう帰るのか?」
「?はい」
「俺ももう帰る。折角だ、飯でもどうだ?」
すっかり身体から汗も引いて、少し寒くなってきた。
リング傍に置いていたスポーツバッグを引き寄せて内部を漁り、着替えを取り出す。
「別に構いませんけど」
「じゃあ、外で待っていてくれ。すぐに着替える」
「…汗臭かったら帰りますから」
呆れたような声音でそう言い放ち、御倉は部室から出て扉を閉める。
ひとりきりになった部屋で、ふと思った。
あいつ、俺に手紙を渡すためだけにわざわざ日曜日に学校へ来たのだろうか。
確か御倉の家からは、月光館学園よりも巌徒台分寮のほうが近かったはずだ。
急ぎの用事ならば、直接寮を訪ねれば良いものを。
*
「別に。深い意味はないですけど」
『うみうし』の牛丼を箸の先に乗せ、ちまちまと食べていた御倉が言いにくそうにそう答える。
店に入るのは初めてだと言っていたくせに、ちゃっかり玉を注文するあたり抜け目ない。
そういえば時任先輩とも、この店でこの席に座った。
御倉暦と時任亜夜、外見はともかく内面はまったく似つかないのに、身にまとう雰囲気やら空気やらは不思議と似通っている。
「ただ、行きたくないんです。だって、あの寮………」
「?」
あの寮、なんだろうか。
わざと言葉尻を濁したのかとも思ったが、そうではないらしい。
「あの寮、なんだ?」
実直に尋ねると、御倉は居心地悪そうに目線を逸らしては、なんでもないですと呟く。
そしてそのまま無造作に丼へ箸を突っ込んで、玉子の黄身を突き潰したのだった。
「だってあの寮、岳羽ゆかりさんがいるじゃないですか」