御倉 暦さんについて私が知っていることは、殆どない。

月光館学園二年E組。私と同じクラス。
右から三列目、後ろから二番目の席。私の隣。
髪は黒。瞳も黒。肌が白くて、清潔感のある女の子。
得意教科は、たぶん数学。
古典がちょっと苦手みたいで、授業中は少しむずかしい顔をしている。

趣味はわからない。
誕生日もわからない。
…どんな顔で笑うのかも、わからない。

「……さん。山岸さん」
「えっ?」

机の端を指先が軽く叩かれ、ふと我に帰る。
慌てて声の方向を見れば、当の御倉さんが呆れたような無表情で私を見つめていた。

「え、えっと…ごめんなさい、なにか?」
「なにか、じゃなくて。さされてる」
「えっ」

ボードを指差す御倉さん。正面に向き直れば、現代文の鳥海先生がにっこりと人当たりの良い、不思議と威圧感のある笑顔で私を見つめていた。

「珍しいわね、貴女がぼーっとしてるなんて。
 先生への差し入れでも考えてたの?」

「は、す、すみまふぇんっ」

噛んでしまった。
穴があったら入りたい。誰一人くすりともしてくれない、静まった教室内は気まずいことこの上なかった。
…いや、笑われたら笑われたで、いやなんだけど。

「…132ページの二行目。そして、から音読だって。山岸さん」

思いがけない事態に混乱していた私に、御倉さんが助け舟を出してくれた。
いい加減鳥海先生の笑顔が引き攣ってきたので慌てて起立し、音読して、再び席につく。
難なく授業が再開されたのを確認してから、隣を向く。
つまらなそうに頬杖をついてボードを見つめる御倉さんに小声で呼びかければ、長い睫毛に守られた黒い瞳が私を射抜いた。

「さっきはありがとう。助かっちゃった」
「ううん、いいよ。どういたしまして」

初めて見た彼女の笑顔は、驚くほど自然で、綺麗なものだった。


*


「御倉 暦さん?ああ、知ってる知ってる。去年、同じクラスだったよ」

その夜、巌徒台分寮ラウンジ。
リーダーこと有里くんがバイトで不在、更に上級生二人も外出中で不在のため、
ゆかりちゃんと順平くんはソファにもたれて全力でくつろいでいる。
今日は新月。タルタロスの構造も少し乱れているようだし、出撃は無しとのことだった。

綺麗な爪をいじりながら、ゆかりちゃんが微笑む。
思いがけない返答に私が驚くと、ゲームに熱中していた順平くんが顔を上げた。

「そういや、あの子今年はE組だったな。ちょいクールな感じで、美人だよなあ」
「確かに、美人だけど」

喜色満面といったふうの順平くんと変わり、ゆかりちゃんの顔はどことなく暗い。

「…私、ちょっと苦手かも。なんでかはわかんないけど」
「え、どうして?」
「だからわかんないって。嫌いとかじゃなくて、その…苦手」

失礼だとは分かってるんだけど、と語尾を濁らすゆかりちゃんに、順平くんがにやついた笑顔を向ける。
「何なに?ゆかりっちってば、暦っちにライバル意識?」
「はあ?んな訳ないじゃん。バッカじゃないの?」
「ひでえ!」
「……てか暦っちって何?やっぱバカでしょ?」
「二回言うなっつの!」

にぎやかな夜は過ぎていく。

影時間に入る前に桐条先輩が帰ってきて、
影時間が終わる頃に真田先輩が帰ってきて。
そして私は眠っていたけれど、明け方ごろにリーダーが帰ってきて。

いつも通りに目覚めて準備をして、モノレールに乗って。
教室に入って、一番最初に目に入ったのは、自席で頬杖をつきながら書面の文字をなぞる御倉さんの姿だった。

ふと思い立って、息を吸って吐いて。
自分の席につくよりも前に彼女の前に立って、精一杯の笑顔を浮かべる。

「お、おはよう。御倉さん」

彼女は少し驚いたように顔を上げ、私の顔を見つめる。
そして昨日と同じ、柔らかく優しい顔で唇を開いて、綺麗に笑った。

「おはよう、山岸さん。今日は噛まなかったね」

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