後編。


血まみれの顔で微笑んだ導師は、
投げ出された腕を踏みながら私の元へと歩み寄ってきた。

怖いのに、逃げたいのに。
指一本すら動かせない。その淀んだ瞳から、目が離せない。

「ッ…!」

その濡れた細い指が、私の手を握る。
そして何かを検分するように視線を走らせた導師は、笑い。
先ほどとは違う、悪意に満ちた笑みを浮かべ。


「ねえヴァン、さっき、導師守護役何人減った?」

「…四人です」

「そう。じゃあこれ、使おうよ」


突き放すように手を離した導師は、続いて私を指差し。
とんでもないことをのたまいやがった。
狼狽する髭。私だって慌てる。何言ってるんだこいつは。

「あいつら四人ぶんくらいなら、こいつ一人で十分だよ。
 あんまり多いとうざいし、別にいいだろ?」

よくねえ!
目の前の恐怖よりも未来の自分の安否に関心が行った私は、
助けを求めるように…ようにじゃない、助けを求めて視線を走らせた。
しかしこの髭、導師にはとことん逆らえないらしい。
終わった!私の未来終わった!


「あああああの導師?私その、そういった定職にはちょっと」

「お前、名前は?」


聞けよ!…とは言えるはずもなく。
とにかく目先の危険に従った私は、リーランド、と端的に応える。
応えた瞬間、導師の目が不快そうに歪んだ。

「ふざけてる?」

あれ。もしかして意味わかってる、のかな。
初めてかもしれない。リーランドっていう言葉の意味を理解した人間。
博識だな。

「施設生まれだからね。簡単でいいでしょ?」
「…」

物心ついた瞬間にはあの劣悪な環境にいたのだから、
無論産みの親がつけた名前なんかは知らない。存在するかも怪しい。

だからこの名は、管理人がつけた。
養父、とかいう呼称は正しくない。本当に管理人…調教師でもいいかな。
そんな奴が御立派な名前をつけるわけがない。
必要ないしね。

リーランド。
"五番目"…あの男の出身地の言葉で、確かそんな意味だった。

「駄目」

吐き捨てるように唸った導師は、嫌悪と侮蔑に満ちた目を向ける。
私にでは、多分ない。他のなにかに。


「そんな"人間もどき"みたいな名前…僕の傍には、いらない」


その瞬間だった。
周囲から沸き立つような、複数の人間の気配。
二十人くらいかな。その生ぬるい悪意は、確かに導師に向いていた。

しかしまあ、当の導師も傍らの髭も慣れた様子で。
迷わず剣に手をかけた髭を、導師が素早く片手で制した。
困惑する髭をよそに、指先を顎にあてて暫し思案する導師。
待っている暗殺者(仮)たちが哀れである。

「ユノ」

「は?」

先刻とは違う。本気で何を言ったのか、何を呼んだのかわからなかった。
無遠慮に聞き返した私に、導師はうんざりとした顔を向け。


「お前の名前。ユノ。…ほら、早く片付けて」


その言葉を皮切りに飛び出してきた襲撃者たちは、
本当に空気が読める人たちだと思う。

とにかく。
これが今から二年と、少し前の話。

蛇足。

既に過ぎ去った、どうでもいい話。

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