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お別れに杭


 風が地面をさらっている。砂粒が時折頬をかすめていくので、私は自分の顔を腕で覆うようにして、伏せた。片方の足は折り曲げられており、腕が乗せられているが、もうお片方の足はだらしなく地面に投げ出されている。横になっていろとディエゴには言われたが、そうするとまるでどこかに落ちていくような感覚をおぼえるのだ。それに、頭の怪我はそんなにひどくない。ぴくりとも動いてくれなくなったつま先を見て、またうつむく。見なくても、骨が折れていることくらいはわかる。というよりぐちゃくちゃだ。皮膚もはげ、その下が見えてしまっていた。ディエゴは黙って傷の手当をしてくれたが、それだけで充分だった。差し出された水を、一滴だって飲むわけにはいかなかった。
 真っ暗闇のなか、焚き火の炎だけがあたりを照らしている。ディエゴはやや離れたところからこちらを見ている。私の体がわずかに上下し、呼吸を行っているかどうかを確認しているのだろう。落馬なんてそりゃあ、馬に乗ってればありうることだ。ディエゴにだってこれからおこることかもしれない。そしてそうなったときに、無傷でいることは、そのままレースを再開することは、困難だ。
 このレース、その賞金のためにかけた、ちっぽけな命が消えることだって、ふつうにある。
 悔しいはずだった。もっともっと遠くまでいけたはずなのに、こんなところで落馬して、自分の馬に踏み潰されて、片足を駄目にした。馬のほうも、足を怪我してしまった。そちらの具合がどうなのかまだ確認できていないが、私の馬は地面に寝そべってしまっている。それだけで、ああもう駄目なんだとわかった。足の怪我は、馬にとって致命傷だ。立てなくなってしまったら、おしまいなんだから。自分の身体をひきずることもできずに、ただ静かに命が去るのを待つしかない。
 私の足を見てディエゴは「血が止まらないな」と言った。あたりまえだけどすごく他人事みたいな様子で、実験対象のモルモットでも観察中かって感じだった。そして彼は私の足の次に、焚き火の炎を見た。私は呼吸をととのえて、笑った。

「なにする気?」
「君の手当て」
「手当てね……。あのさ、まだ夜は浅いじゃん」
「そうだな」
「日が昇るまでずいぶんある。リタイアですって宣言して、係員に見つけてもらえるまでは、もっとある」
「ああ」
「その間に、私はどうせ死ぬ。手当てなんて無意味だ」
「知っている。無駄なことなんかしない」
「……?」

 ディエゴは自分の後ろに気をやった。彼のシルバー・バレットが、私の馬を気遣わしげに舐めている。私の馬は弱弱しく泣いていた。ああ、今あんなかんじなのか、私も。そう思うと、なぜだろう、涙がでそうになった。水分の無駄と思って、目を閉じた。
 私は自分のぐちゃぐちゃになった足を差し出す。切断面などがはっきりしているわけではないので、上から布で押さえつけただけでは止血の決定打には欠ける。足の根元をぎゅっと布で縛ってはいるが、それだけでは駄目らしい。私が思うに、今この体勢、つまりふつうに座っているのがいけないのだと思う。寝転んで心臓の位置より上に足をあげればマシになるはずだ。しかしやはり、寝転がるのが嫌なわけで、結局自分で自分の命を縮めている。いや、縮めてなんかいない。このままでは死ぬ。それが決定事項なんだ。もう誰にも、どうにもできない。
 彼が私のために、レースの存在を無視するなんてありえない。だから彼は日が昇ったら私を見捨ててここを去る。ゴールを目指して馬を走らせるのだ。それでいい。
 ディエゴは松明を作ると、その先に火をつけた。赤く燃える炎が、目の前でゆれている。熱い、と感じるはずが、そうでもなかった。きっと怪我のせいで、痛覚が麻痺でもしてるんだろう。

「名前?」
「ハァイ」
「見えてるか? 焦点が定まってない」
「眠いんじゃないかな」
「……なら寝ていてもいいぞ」

 そう言ってディエゴは、私の両腕を片手で拘束した。地面に仰向けにされる。後頭部が地面について、じゃり、と音がする。ああ、落ちていくような感覚がする。すごく嫌だ。それから口に布を噛まされた。間髪いれず、じゅ、と肉の焼ける音がする。身体を通り抜けていく持続的な痛みに耐え切れず、がくがく体が震えるのがわかった。痙攣をおこしたような状態になり、身体を反って地面で暴れようとする。そのほとんどを押さえつけながら、ディエゴはゆっくりと私の怪我したほうの足を焼いていく。噛まされた布ごしに轟いているのが自分の声だと思いたくなかった。悪魔の断末魔みたいだ。
 びくり、びくり、と痙攣していた身体が止まり、意味を成さない弱弱しい言葉を吐きながら、私は自分の両手がディエゴの身体にしがみついていることに気が付いた。爪の先でぬるりとした感触がある。自分のものではない血の存在にはっとして目を開けると、服越しに自分の爪が彼の皮膚を傷つけているのが判った。めずらしく汗をうかべて、ディエゴが息をつく。

「よく耐えたな。途中でショック死するかもと思っていたのに」
「ら……な、なに……」

 口に布がつまっていて声がうまく出てこない。唾と一緒に口の中から吐き出す。どうにもまだ話せそうにはなかった。かわりにすこしだけ頭をあげて自分の足の状態を見ようとしたが、ディエゴに目を塞がれてしまって叶わなかった。

「見ないほうがいい。傷を焼いて火傷にした。血は止まったが、この足はもう切断してしまったほうがいいだろうな。今また布で隠すから、ちょっとの間目を閉じていろ」
「……わたし……」
「水は飲むか?」
「…………」
「君はべつに死なない。うまいことレース開催側に見つけてもらえ。それまで生き延びていれば君の勝ちなんだから、がんばれよ」
「……水」
「口をあけろ」

 ディエゴは私の顎に手をかけて固定する。水はなまぬるかった。それに、思い切ってたくさんごくごく飲めなかった。ちょっとずつディエゴがくれた。雛にエサをやる親鳥みたいと思ったが、言わなかった。少しの水で喉を潤して、ディエゴが再び布で隠した、もう完全に動かないだろう自分の脚を見て、それでも自分が息をして、彼と話せて、生きている、ということが、どうしようもなく嬉しかった。せっかく飲んだ水を涙にしてしまうのはどうかと思ったが、致し方なかった。

「ここで、お別れか」

 もっと悠然として言うつもりだったのに、声が震えた。それを聞いたディエゴがひとつ笑ったので、どうもでよくなったけれど。
 生きていればまた会えるなんて当たり前のことをいえなかった。そういうレースだ。ここでは、一度離れたら、それが今生の別れと思え。一度見放したら、馬も、人も、すべてなくなってしまうのだ。
 そして貴方は、私を見放す。

「ああ」

 とびっきり甘い声で、返された。また震えた。夜が冷たい。
 瞼が落ちていくのを感じた。それが永遠の眠りにならないことを知っている。彼がそうした。焼かれた足が尋常じゃあないくらい痛かったが、どうでもよかった。

「……それじゃあ、さよなら、だね」

 さよならの意味を、貴方はちゃんと知っている。誰かとのお別れは、人生にたったの一度しか訪れない。
 だから、お別れを。
 精一杯の、別れの言葉を。
 まるで祝福のように、投げかけてくれ。

「……なぁ、水、もうちょっといらないか?」
「……なんだよもう……。じゃあ、あとひとく、」

 突然のことに私が肩を震わせると、すぐ近くで笑い声がした。「あれ、ねぇ、ちょっと、水は? はいってなかったよ?」と聞くと、その笑い声が大きくなった。深い呼吸を繰り返しながらディエゴを見やると、彼はもう一度私の顔に唇を寄せて、今度はそれを額に落とした。それになんの意味があったのかはわからなかったが、私にはそれが、なにか願い事でもかけたように思えた。なにを願ったのか聞こうとしたけれど、それにかぶささるようにディエゴはやけに上機嫌な優しい声で「さよなら」と言ったから、私は満足して瞼を落としてしまった。



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