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 私は光を失った。
 もう永遠に戻ってはこない。


 ベッドで目が覚めたとき、私はその目が覚めた……という明確な感覚を失っていた。太陽ほどの強い光であればなんとなく闇の中にオレンジ色が浮かび上がる……けれどそのほかは完全な闇にとざされていた。医者は私に身内の存在を尋ね、私は首を横に振ってそれに答えた。それからしばらくベッドの上で生活をし、病院から出られるころには季節が夏から冬に変わっていた。いつでも湿っぽいロンドンの町を杖をつきながらゆっくり進む。雑踏の音がしている。誰かの足音。その波。重なってなにもわからなくなる。これからは皮膚の感触や耳で聞いたもの、臭いを感じて生活していかなければなりません。貴方は大事な器官をひとつ……言い方によっては二つ失ったのです。医者の言葉を思い出す。駄目だ。見えないのは駄目だ。どこの壁かはわからないけれどとにかく壁に……触ってみるとレンガ造りの壁だった……に寄りかかって、足を止める。
 なにもわからない。聞こえても、わからない。巨大な音の渦がある。それらすべてを聞き分けることはできない。この足音の波についていけば、私は家に帰れるかというと、そうじゃあない。私はなにもわからない。真っ暗な世界に取り残された。知っていた世界は知っていたと思い込んでいた世界で……なにもない。せめて自分の家に帰らないといけないのに、それもできないなんて……。
 近くに人の気配を感じた。物乞いだろうか、不清潔な臭いがする。そこにいる誰かに金を払って、家の場所を教えて案内してもらうこともできる。彼らは金を持っている人間にならどこまでも媚びるから、きっと心配ないだろう。しかし盲目者の住んでいる家の位置がバレて、明日には私の財産が消えているかもしれない。ご家族の方でなくとも、誰かに向かえを頼みなさいと医者は言った。彼は私に電話を握らせたが、私は慎重に、両手でその電話を触りながらでないと、誰かに連絡もできないのだということを思い知っただけだった。
 ……だって、電話なんて意味がないと思っていたんだ。だから、番号なんて知らなかった。
 目が見えれば、いつだって会いにいけた。
 ……だから、私はこの場所で待つことしかできない。信じて、待つことしか。
 いつもこの通りを、通っていたはずだ。今も、そうしているかどうかはわからないけれど……。ただの帰り道の中で、壁にもたれかかっている盲目者の姿が、私だと気がついてくれるなんて、ないと思うけど。
 ないと思うけど……いや。

「名前?」

 彼ならやってのけると思うんだよなぁ。



 その声が知っているものかどうかを判断するのに、私は少し時間を要した。だってしばらく会っていなかったし、いや私の名前を呼んだ時点で殆ど決定だったんだけど、それでも少し信じられない気持ちがあった。それに、こうなった私と彼が以前のように接することができるかということも気に掛かった。余計な期待は持たないほうがいい。会いたかったけど、すごく……会いたかったけれど、たまたまここで出くわしただけにすぎないんだ。そう思わなくては。

「ディエゴ?」
「ああ、やっぱり君だったか。そんなところで何をしている?」

 私が盲目者であるということは、手にしている杖がなんのためのものなのかを考えなくてはわからないことだろう。しかし彼が、私に何があったのかを知らないはずがない……それは彼が私に関心があるということとは別に、彼がそういった情報を知っておきたいという性質にあるからだ……のに、普通に話しかけてきたことに、私は驚いていた。いや、彼らしいと言えば彼らしいのか?

「疲れたから休んでた」
「だったらそんなところに居ないで、……そうだなちょっとなにか食べていかないか?」
「……どこで?」
「そうだな……手を」

 手を取れって? あんたの手ぇどこだよ。差し出す前に、手首を掴まれた。でも引っ張るわけじゃない。掴んだだけ。そのまま私の手を広げて、手のひらに何かを書く。バツ印のように見える。線はきっと垂直に交差している。

「これが方角の線。今俺が触っているこっち側が北。店の場所は方角的には南西の方向にある。これからこの壁にそって西に歩いて、曲がり角で右に曲がる。今俺たちはでかい通りに居て……俺は人の少ない道を歩きたい。付き合ってもらっても?」

 手は、引かれない。

「……ディエゴ、私が事故にあったって聞いて、なんて思った?」

 だから私は、自分から歩き出す。

「ざまぁみろって」
「流石だ」
「だろ?」

 杖で壁の存在を確かめながら進む。さっきまで居たはずの物乞いの気配がいつのまにかなくなっている。誰に追い払われたんだか。壁の途切れている場所で右に曲がる。ゆっくりと進む私の、前でもなく後ろでもなく、隣に、ディエゴがいる。「真っ直ぐ歩いていくとギターを抱えた青年の足を踏むことになる。二歩左にずれるとそうならずに済みそうだ」
「ミュージシャン?」
「さぁな。青い帽子を被っている。肌は浅黒い。民族的な特徴とかではなく日焼けの黒さだ。夏はビーチにでも居たのか?」
「じゃあ貧乏人ではないな。金持ちの息子だ。夢見がちの。将来への不安なんてなさそう」
「君は」
「……どう思う?」
「君が能天気なのはちょっとな」
「不安でいろってこと?」
「そう。……じゃないと俺のところに来なくなるだろう」
「そんなことないよ。でもなかなか会いにいけなくなるかも……。貴方は私の家に来たりしないもんね」
「しない。ただこの軽い食事を終えた後、君は自宅まで自分の足で歩き、さらに俺の家にも来てもらうことになる」
「……案内してくれるってこと? 一回で完璧に覚えろって?」
「一回で覚えられなかったら縋りついてこい。懇願次第で二回目を考えてやる」
「やなヤツ」
「どうも。エセミュージシャンを通り過ぎた。もうすぐつくぞ。店の入口はレンガを積み上げて作ってある。アーチ状になっていて、そこに植物のツタが巻きついている。銀色の鎖で看板が吊るしてあって、こう彫られている、店の名前だ―――」

 私は見えないディエゴの表情をうかがう。言葉を止めて、彼は「なんだ?」と言った。そのときに彼がきちんとこっちを見てくれていたのかどうかはわからない。自分のことは絶対に教えてくれないだろう。そのかわり、周りにあるものをみんな、私に見せてくれるつもりだ。

「なんでもない」

 私は再び光を得たのだ。
 そう思った。




 ×××××




 ディエゴは私と歩くとき、周りの様子をこと細かく説明してくれた。排水溝に死んでいるネズミのことも、捨てられているパンのこともみんな教えてくれる。私はまるで目が見えているときのようにその輝きを楽しんだ。しかし、彼の表情だけはどうしても見えない。どんな顔をしているのか、笑っているのか? 触れようとしたらみっともないからやめろと怒られるし、彼の様子だけはどうしても知り得なかった。私は声から彼の機嫌の具合を予想するだけだ。今日はどんな服を着ているのかと聞いたら教えてくれるのに、今どんな顔をしているのと聞いたらはぐらかされる。そのかわりに私がそのときどんな表情をしているかについて、いらんくらい詳しく教えてくれる。間近で鏡でも見せられている気分だった。
 どうしてこんなにも彼について考えているかというと、彼がとあるレースに参加したまま行方不明になったという知らせを聞いたからだ。行方不明――あるいは誰かに殺されたのかも。あれは危険なレースでもあったから、と誰かが言っていた。私はそんなものは信じていない。ディエゴ以外からもたらされる情報に真実なんてありはしないのだ。彼が語ることが私の全てなのだから。しかしディエゴに会えなくなったというのはどうしようもなく事実で――、私は毎日、彼の家まで歩いていく。ディエゴは私を色んなところに連れて……いや、正確にはいろんなところへの『行きかた』を教えてくれた。ロンドンで知らないところはないと思う。ディエゴが語り聞かせてくれた風景を想像しながら、杖だけで私は町を歩ける。彼の家に行くなんて簡単だ。簡単。
 彼の家に行くと、彼には会えなかったけれど、彼の馬が帰ってきているという話だった。街のなかに放置されているのを発見されて、どうするかということになって、一応この家と一緒に彼の財産として売られるかなにかするんだそうだ。そのためにイギリスまで運ばれてきたらしい。彼の馬との面識はあったので、私は首のあたりに抱きついて、それからディエゴはどこに行ったの、と聞いた。馬はすんと鼻を鳴らすだけだった。
 本当はわかっているのだ。この馬を置いてディエゴがどこかに行けるはずがないって。彼が帰ってくるならこの馬に乗ってだって……。周りのみんなはもう彼が死んでしまったものとして、彼の家や馬を誰のものでもないものとして扱っている。その事実が……だんだん私の身にも染みていくのを感じた。私は最後に彼の馬にキスをして、もう一度彼はどこ、と聞いた。答えは返ってこなかった。私は馬にさよならをして、夜の曲がり角を曲がっていった。

 私は光を失った。
 もう永遠に戻ってはこない。

 ただ、彼との記憶の中にだけ、わずかに射す、あの明かりが、私の中に、永遠に残るだろう。


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