Unbreathed love syndrome | ナノ


▼ When all the hearts die:T

 どんなときでも、痛みは伴う。そういうものと、知っている。
 閉ざされた扉からもれる光がきれいで、そこに向かって俺は爪を立てていた。
 何年も前からそこにある、最近無人駅になった場所の、コインロッカーのなかで、俺は母親の帰りを待っていた。
 なにもしなくたって、ひとは愛されるものだ。そう信じていたのは、ずいぶん前のことだった。掛け算をがんばって覚えても、きれいに字をかけるようにしても、かけっこで一番になっても、粘土でつくったおきものをプレゼントしても、そうなにをしたって、あの人は俺のほうを向いてはくれなかった。。
 これができたら、なにかひとつ欲しいもの買ってあげるね。普段はこちらを見向きもしない母親が、きちんと俺に視線をあわせてそう言ったものだから、俺は言われたことを守るのに必死だった。
 夏だった。ときどき聞こえる誰かの足音に、コインロッカーのほかの扉が開かれたり、荷物が出し入れされる音に、俺は息をひそめていた。母親から渡されたペットボトルのお茶を、ときどき舐めてのどの渇きを潤した。トイレにいきたくなっても、おなかがすいても、我慢した。暗闇のなかでずっとそうしていた。
 そのとき俺が持っていた『愛される手段』は、それだけだったのだ。やっとみつけた、たったひとつの。

 つぎに目が覚めたとき俺は、病院のベッドの上にいた。俺の『ほんとうのおかあさん』と名乗るひとが俺の名前を呼んだ。なぜこの女の人は俺の名前を知っているのだろうと思いながら、抱きしめられていた。知らない人のにおいがして、どこか近くで、なにかが痛むのを感じた。
 そのあと『けいさつ』と名乗る男のひとがきて、俺はいくつかのことを聞かれた。母親に言われたとおりに、俺はすごく遠いところから電車に乗ってここに来たのだと言った。本当はたった三駅ぶんなのを知っていたけど、そう言わないと俺は、母親から「なにかひとつ欲しいもの」を買ってもらえないから、嘘をついた。よく知っている場所が痛むのを感じた。
 きみは誘拐されていたんだよ、ずっと、と、知らない人が言った。俺は誘拐、という言葉の意味の説明を簡単にうけて、それでもやっぱりその人の言っていることはわからなかった。わからなかったけれど、俺は泣いていたと思う。泣きながら、俺は自分がずっと母親だったひとの黒くて長い髪を想いながら、その人は茶色い髪で、肩までの髪の毛で、あとはよくわかりません、と答えた。『ほんとうのおかあさん』が俺をまた抱きしめた。どこかはよくわからないけど、確実に自分の中に痛みをおぼえる場所があるとぼんやり思っていた。
 これができたら、と言われたことをぜんぶやれたつもりだったけれど、なにかひとつ欲しいものを買ってあげるね、と言った人はどんなに待っても現れてくれなかった。俺は別になにも買ってもらわなくてもよかったけれど、一回だけでいいから、夜をひとりぼっちじゃないものにしてほしかった。くらい部屋の中で布団の中、ひとりで羊を数えるのが嫌だった。子守唄を少しでいいから歌ってくれたり、俺が寂しくなくなるまで背中をとんとんしていてくれたりするだけでよかった。そうならなかったってことは、おれはまた方法を間違えたのだろう。愛される手段は、これではなかったのだ、そう思った。

 では、愛されるには、どうしたらいいのだろうか?
 『ほんとうのおかあさん』は俺を家につれていってくれた。『ほんとうのおとうさん』と紹介されたひとは俺を抱きしめたりはせず、すこし気まずげだった。『ほんとうのおかあさん』は、しかたないことなの、と言っていた。『ほんとうのおとうさん』は自分から俺に近づいたりはしてこなかったけれど、そのひとはどこか、俺が母親だと思っていたあのひとに似ていた。顔でもしゃべり方でも雰囲気でもなく、なにかどこかが、あのひとに似ていた。あのひととこの『ほんとうのおとうさん』は友達なんじゃないかな、と思った。思っただけで誰にも言わなかった。
 そのうちその『ほんとうの』のつく両親はこどもをつくった。俺には歳の離れたきょうだいができた。彼らの興味はそちらにそれた。きょうだいにばかりかまう『ほんとうの』両親に対して、俺はどうしたらいいのかわからなかった。だって掛け算をがんばって覚えても、きれいに字をかけるようにしても、かけっこで一番になっても、粘土でつくったおきものをプレゼントしても、愛されるわけじゃあないのだ。なにをしたらいいのかわからなかった。愛される手段を探すことが必要だと思った。

「俺はそのとき、『恋』を選んだんだ。純愛モノのテレビドラマが流行ってた。それに影響されたんじゃないかな」

 苦々しげに自分のコーヒーカップを見つめる隣人に俺は笑って、カップをテーブルに置くことをすすめた。テーブルの上のいろんな書類をどかして、どうにか隣人がカップを置く場所を作ってやると、隣人はカップをそこに置かないで、ずいと俺に押し付けた。俺がびっくりして固まっていると、飲んでみろ、と隣人は強く言う。俺はまたため息がつきたくなった。ねぇ隣人、さっさと俺のことが嫌いだって、きもちわるいって、つきまとうなって言ってくれれば、この恋も終わるのに。君はちょっと分かんない人だね。
 それでも君は、俺の恋したひとだ。ほんとうは……、……ほんとうは、君が愛してくれるかもしれないだなんて、これっぽっちも思ってないよ。思えるわけないじゃないか。それでも俺は、君に愛されることを望むのを、やめることはできない。恋ってそういうものなんだろ?
 いわれたとおりに、カップに口をつける。すこし冷めてしまっていた。

「甘……」
「客に出していいものじゃあないだろ。入れなおせ」
「……隣人……」

 無茶言わないで。何度入れなおしても、君へのコーヒーにはたっぷりのミルクと砂糖が入る。俺の隣に住んでいた女の人は、そうじゃないとコーヒーが飲めないのだと言っていた。紅茶のほうが好きなんだって。
 俺、ほんとうは恋のしかたなんて、知らない。

「……隣人、あのね」

 痛みが伴う。笑っていても、恋をしていても。そういうものだと知っている。きっと、ヒトの心臓はその存在を忘れられないように、痛むようにできているんだ。学校では習わなかったけど、きっとそう。

「恋愛ドラマを参考にして、俺、恋をしてみたんだ。一番最初の恋。白い猫だった。小柄で、きれいな猫。人間に恋をするのはちょっとこわかった。……ねぇ隣人、俺がわるいのかな。俺が大好きだよって伝えてすぐ、その猫は車にひかれて死んだ」

 喉がひくついて、うまく息ができなくなっていた。俺を誘拐して、それでも何年間も一緒に暮らして、育ててくれたひとの容姿を、嘘をついて警察のひとに伝えたあのときと、同じ感覚がした。

「どうすればいいかわからなかった。愛されるためには恋をしないといけないのに、恋していた対象がいなくなってしまって。次の恋を探さないとって、必死だった。俺、そのとき公園にいた。にぎわう場所だったんだ。子供がいっぱいいた。そのうちの一人が、女の子だったか男の子だったか忘れたけど、風船をもってた。デパートかなんかで配られてたのかな。ヘリウムガスが入ってて、宙に浮くやつ。白い風船だった。数分前に死んだ猫と同じ色だった」

 隣人、隣人、俺はきみの名前をしらない。なんて呼んだらいいかわからない。きみを隣人って呼ぶたび、俺はきみの前に隣人だったひとのことを思い出す。きっと君への恋を終えたら、俺はきみに似たひとに恋をするんだと思う。それが人間じゃなくてもするんだと思う。

「恋をした。頼み込んでその風船をもらって、間違って手を離してしまって、それが空に昇って行って見えなくなるまでの短い恋だったけど……。あのときからずっと俺は、そういう恋のしかたしかできないんだ」

 俺はきみに恋をしている。きみを見ないで、きみに恋を。

「やめることはできない。恋以外に、もうどうしたらいいかわからない。これがだめだったら、あとはどんな、愛される手段があるっていうんだろう? 俺は、恋をしていないと、きっと生きてもいけない」
「イロイ」
「……っ、う……」
「コーヒー」
「……、……?」
「入れなおせと言っている」
「……うん。でも」
「やれ」
「できない……よ……」
「うるさい。やれ。……俺はな、お前のその、ややこしいことなんて知ったこっちゃあない。だが今、お前が恋とか主張するヤツをしているのが俺だというなら、こんなに迷惑なことはない。だからこうやって仕方なく話を聞いてやってる。お前のための行動なんかじゃあない。だから、やさしくなんかできないぜ」
「……っ、……! 隣人……っ、だったら……」

 ふるえる手で隣人のカップを受け取る。自分のカップと一緒に、それをテーブルの上に置く。置くときにカップのひとつが斜めになってしまって、書類のいくつかに染みができる。

「だったら、言えよ……! 嫌いだから近づくなとか、気持ち悪いとか、イカれてるとか! 言えばいいじゃないか! そうしたら俺は勝手に傷ついて、諦めて、また新しい恋でも始められるのに! 君がそうしないから俺は……いつまでも君が好きなままだ……! 愛してくれないなら、やさしさなんてあったって意味がないッ!」
「お言葉だがな、イロイ。それじゃあ意味がないんだ。隣人だからな、なにせ……」

 心底めんどくさそうに、隣人は肩で息する俺を見上げる。俺は立ちあがっていて、ずいぶんな大声を響かせていることに気がついた。隣人は無表情に風が強くなってきたから窓を閉めろと言った。俺は半分くらい放心したままそれに従う。

「さて、まだ聞いていないことがあるぞ……。なんだったかな……。……お前がコーヒーを入れなおしている間にでも思い出そうか」
「…………、……きみは……」

 なんで……俺に……。思うようにさせてくれないんだ……。俺はただ……恋を……。……きみに……。
 わからない。うまくいかない。失敗なのか。俺は、もともと、そういう人間なのか。なにをしても、愛されるには、値しない、人間……。
 自分の指先がひどく冷え切っている、という感覚がする。カップの持ち手に指を通そうとしたのに、なかなかうまくいかなかった。隣人が俺の指先に気だるげな視線を送っていたが、やがて眼が乾いたらしく、その瞳は瞼の奥に閉じ込められてしまった。
 ぽたぽたと外から雨音が聞こえてきた。風が強くなってきたというのは本当らしい。ただでさえしみったれた部屋なのに、雨がふってはどうしようもなかった。それでもそのしみったれた部屋で俺が生きているのは、恋をしているからだ。隣人に恋をしているからだ。
 ああ、この恋を、できれば終わらせたくなんかなかった。
 君を好きでいたかった。
 ……ほんとのことだよ。



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