Unbreathed love syndrome | ナノ


▼ Tenderness which is not chosen.



 夜に居座っている。しんとした暗闇の中に、それを見つけた。外出先からの帰りだった。風にカーテンがゆれていて、そこから漏れる光が小さくなったり、大きくなったり、たまに消えたりしている。ベランダの柵のほうに顔を寄せて、イロイは誰かと話をしているようだった。よく見ると柵の上には猫が一匹乗っていて、イロイのほうを向いている。俺の足跡に先に気がついたのは、その猫のほうだった。ぴくりとこちらに顔を向けた猫の視線を追ったイロイが、あ、と声をあげる。

「おかえ……こんばんは、隣人」
「……その猫は」
「野生かな。妙になつくからずっと飼い猫と思ってたけど、昨日だったかな、抱きあげたらすごく汚れてて……」

 イロイは一旦言葉を切って、じっとこちらを見つめる。俺は外から、ベランダにいるイロイを見上げるかたちになっている。彼は首をかしげている。俺は黙ったままだったが、イロイを改めて見返してやる。それで相槌代わりだ。イロイの前にいた猫が身じろぎして、次の瞬間には柵から飛び降り、どこか暗いところへ駆けていく。それはすぐに見えなくなる。

「……バスルームで、きれいにしてやって、乾かし終わって、今、バイバイしてたところ」
「飼うのでもないのに世話をやいていたのか」
「ああ、うん……。……隣人」
「……なんだ」
「そっちに行ってもいい」

 俺じゃあなく地面を見つめて、イロイは言った。俺は頷かなかったし、むしろ眉をひそめた。でもイロイはベランダの、あのちゃちな柵を越えて、先ほどの猫のようにしなやかにとはいかないが着地して、そして初めて俺の目の前に立った。部屋からもれる光も届かない、月だけの薄明かりの空間で。俺とイロイのあいだには、いつだって薄暗さしか広がっていない。目をこらさなければ相手のいる位置もかわらないような、それでもなにも見えないわけではないという微妙な暗闇の中。俺たちはまだきちんと相手の顔すら知らない。
 なのに、お前は、恋をしただとか言う。

「……隣人」
「……」
「あのさ……そろそろ……ああいや、べ、べつに時期を見計らってたとかでもないんだけど、その……、でもいいかげん、名前くらい教えてよ」
「……なぁ、イロイ」

 フェアじゃないってやつか? 俺はこいつのことを、こいつとこいつの上の住人からある程度聞いて知っているが、こいつは俺のことなんかほとんど知らない。昼間出会っても、そうだと気がつくこともできないかもしれないくらい。
 だが本当にフェアじゃないのはどっちだ?

「俺の名前を聞いたとして……本当にそれを呼びたいのか」
「だから聞いてるんだよ」
「そうか? すまないが俺は、自分の名しか名乗れないぞ」
「…………、なに? どうしたの隣人」
「『隣人』」
「…………」
「その呼び名が染みついているみたいじゃあないか、イロイ。俺の名を知りたいと言うのなら、それなりの覚悟を決めろ。俺を俺の名で呼ぶ覚悟だ」

 ざり、と靴と地面の間で小石がこすれる音がした。イロイの足元からだった。おかしなことだ。彼は俺から距離をとろうとしている。自分から同じ地面に下りてきたっていうのに。
 飼うのでもない猫に世話をやくように。
 愛するでもない人間に恋をしたと伝える。
 きっとそれが、お前なんだろう、イロイ。

「お前は俺を人間扱いするんだな」

 確認のため問うてみると、わかりやすくイロイの顔がゆがんだ。小さくひとりごとのように、彼の口が「ジャイロ、か」と動く。それからすぐ、耐えられなくなったみたいに俺から視線をそらした。風通しのいい場所だ。はたはたとイロイの部屋のカーテンがゆれているが、それ以外はひっそりとしている。
 ため息をつくのが聞こえた。イロイだった。彼はもうこちらを見ている。

「……きみの前に好きだったのも、同じく人間だったから」
「珍しいことか?」
「そうだね。はじめてかも。……なんか飲んでく? えーっと、紅茶もあるよ」
「コーヒーがいい」
「へー、意外」
「黙れ。お前が『紅茶が好きそう』と考えていたのは俺のことじゃあないだろう」
「……、なんだよ隣人、名探偵だな」
「……『隣人』、か」
「ちょっとのあいだ我慢してよ、隣人。この恋が終わるまでの辛抱なんだから」

 イロイは、笑う。気味の悪い笑顔だ。こいつのつくった、あの模造品だらけの部屋を見たときと、同じ感覚。嫌悪感がした。イロイは玄関のカギを開けに行くのは面倒だと、俺を窓から部屋に案内した。よくわからない物体(発泡スチロールのかけらに見えたが、それがなぜかけらになっているのかにまで理解が及ばない)が散らかっている部屋だったが、最低限の整理整頓はされているようだった。最近誰かを部屋に招いたのだろうか、彼を入れても三人分くらいの腰掛ける場所が用意してあった。そのうちのひとつに座る。
 コーヒーを飲みに来たわけじゃあない。キッチンに向かったイロイに声をかける。

「なぜ、俺を好きになろうと思ったんだ?」
「……砂糖いる?」
「いらん」
「……きみが『隣人』だったから」
「…………、」
「……俺がきみの前に好きだったのは、女のひとだった。今、きみが住んでいる部屋に、君の前に住んでいた人だ。いろいろ、よくしてくれた……。知らない国に一人で大変だろうって。俺が好きだって言っても、いやな顔しないでくれた。でもある日突然、交通事故だかで亡くなった。俺がそれを知ったのは、彼女の遺族が遺品整理、ていうか部屋を片付けるためにここに来ていたことがあって、そのときだった。俺の知らないうちに、俺の好きな人は死んでしまっていたんだ」

 イロイはマグカップを二つ持ってきて、そのうち一つをこちらによこす。口をつけたくはなかった。コーヒーは薄茶色をしていた。ミルクを入れろと言った覚えはない。このなかにはきっとたっぷりの砂糖が入っているのだと確信できた。『苦いものが得意でなさそうな女性』に対しての配慮だ。さきほどから感じていた嫌悪感がますます濃くなる。

「なぁ、多くのうちのたったひとつだったとしても、その恋が軽いものだったなんて決してならないだろう? ひとつ失恋するたびに、俺はとんでもない悲しみや、苦しみ、悔しさなんかとたっぷり向き合わなくちゃあいけない。失恋して自殺するヤツってどんくらいいるんだか知らないけど、そのくらいショックなことってのは、わかるなぁ……。でも、死ぬわけにはいかないし、俺はどうにかして、その痛んだ恋心を慰めてやらないといけない」

 カップの中身をこいつにぶちまけてやってもよかったが、しばらく迷って、俺はカップを腰掛けている自分の膝の上まで下ろした。服ごしにその熱が伝わる。

「べつにへんなことでもないだろう。前好きだったものに、ちょっとでも似たものに懐かしさを感じて、それに恋をしてしまう、なんて。俺もそれに習うことにしたのさ」

 目を閉じたイロイは、先ほどから貼り付けられたままの気味の悪い笑みをくずさない。

「『隣人』が死んでしまったと知ったとき、俺はすごく悲しかったんだ。悲しくて悲しくてしょうがなかった。でも『隣人』がいなくなってしばらくしてから、俺はね、また『隣人』の部屋で、窓が開く音を聞いたんだよ」

 イロイはこちらを見る。しかし、まったく見られている、という気にはならなかった。俺の後ろにある冷蔵庫、あるいはそのまた後ろにある壁でも見つめているかのようだった。しかしイロイはそれで俺を見ているつもりらしい。ふざけたことだ。

「そのときからずっと決めていた。次の恋も『隣人』にしようって。いとしい共通点じゃあないか、『隣人』、君に出会えてよかった。――――記念に乾杯でもしよう」

 亡霊に向かって、イロイはマグカップをかかげる。ほんのちょっとなめるだけにした俺のコーヒーは、やはり死ぬほど甘ったるかった。



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