Unbreathed love syndrome | ナノ


▼ A portion is nothing.


 なぁイロイ、お前のそのくだらない片思いの連鎖はいつになったら終わるんだ?

 いつだったか、たぶん酒の勢いで、俺はイロイに聞いたことがある。テーブルの上におかれたボトル……覚えちゃいないが、どうせ酒瓶だろう……を手にとって、さして気分を害した風でも、というか俺に言われたことの意味を理解できた風でもなく、あっけからんと奴は答えた。

 やだな、なにがくだらないんだか、俺にはわからないよ、ジャイロ。

 俺がそのとき直感的に感じ取ったのは、たぶん絶望に似たなにかだった。いや。べつに世界が終るんでもなし、グラスを取り落とす程度の衝撃にすらならなかったが、漠然と、ああ自分にこいつを救ってやることはできないんだ、と感じた。
 イロイはあれで、意図的な奴だ。考えなしの天然な発想はしない。たぶんきちんと常識を持っているし、自分がさまざまなものに対して繰り返す恋が一般的でないことも、きっとどこかでわかっている。それって普通じゃないだろ、と俺が言うたび、あいつは笑ってはぐらかす。真剣にとりあうことをしない。俺は奴の友人であって、真面目に向き合うべき人間ではないのだ。
 なんとなく、屈辱的な話ではある。
 あの男がどうしてあんな風に恋をするようになってしまったのか、ケーサツみたいに奴の過去を調べ上げればわかるんだろうか。そこまでするほど、俺は退屈しちゃあいない。だからもし俺があいつをどうにかしてやりたいのだとしたら……、あいつに話させるしかないわけだ。なぁ、原因がないわけないだろ。どうしてそんな生き方しかできないんだ? ちょっとだけわざと、責め立てるようにな。でも、この質問にイロイが真面目に答える相手は、俺じゃない。だから俺は、あいつを助けてやることも、理解することもできない。ただたまにベランダに出て、話をするだけ。なぁ、友人って結局そんなもんだと思わないか? いや、そんなこと思ったって、俺自身がイマイチ納得できていないのもわかっている。だから、だから、苦痛なのだ。あいつを見ていることが。




 天気が良かったのでベランダに洗濯物を干すことにした。急ぐ用事もない。今日は休み。南向きの窓からは、ほかの建物と、車一台がぎりぎり通れる細い道路が見える。そのど真ん中で猫が昼寝をしているくらい平和な日だ。さきほどもトマトの入った袋をぶらさげたイロイがアパートに帰ってくるためにその道をこちらに向かって歩いてきていて、猫に気がついて昼寝の邪魔をしないようにそっと近づいて眺めていた。恋をした様子ではなかった。まだ隣人に想いを寄せているのだろうか。
 洗濯物を干し終えた後も、しばらくそうやってアパートの前の道を眺めていた。イロイの部屋の窓が開く音と、彼が料理をする音が聞こえてきた。なにかを炒める音だ。しばらくするといいにおいがただよってきて、俺はたまらず下の階に声をかける。

「おーい、イロイ、ミートソース余る予定とかねーのかよ」
「んーっ、えー、ジャーイーロー?」

 やや遠くから声がした。俺の部屋とイロイの部屋の構造がおよそ一緒だとすると、キッチンはベランダにつながる窓とは反対方向についている。なにやらがちゃがちゃとなにかをしたあと、ひょいとイロイが窓から顔を出した。

「ミートソースなんかつくってないぞーこれチキンライスのにおい」
「このまえくれたのと同じやつか。なんでもいーぜ、余ったらくれよ」
「俺がつくんのオムライスなんだけどジャイロの冷蔵庫卵余ってる? ジャイロのぶん作るなら卵たりない」
「オムライス? なんだそりゃ。説明しろ」
「えー……そっか……食べたことないか……ジャイロのぶんはチキンライスでいいか……」
「よくわかんないけど妥協はよくないぜ。卵だな」

 にゃあと猫が鳴く声がした。俺とイロイは、おや、と思ってアパートの前の道路に目をやる。車いすの少年……いや、座っているせいでわからないが、少年って歳でもないのかもしれない……がいるのが見えた。道路のど真ん中に寝ていて邪魔な猫を避けるためにわざわざ道路端に寄ったものの、起床した猫によって進路を妨害されている、といった場面に見えた。へたに車いすを動かせば猫を轢いてしまうかもしれない。しかも車いすは進路をこのアパートがある側に向かってとりたいらしく、そうすると少しだけ傾斜のある道路をのぼるかたちをとらなければいけない。歩いているならともかく、ちょっとした傾斜とはいえ坂道の途中で止まるには車いすはつらいだろう。

「あーあ、あの猫人懐っこいし、追い払うの大変だろーな……」

 つぶやくイロイにちらりと目をやる。ベランダの柵に両手をついて、身を乗り出している。そわそわと足踏みをして、やりたいことは決まっているのに、どうして躊躇うのだろう、と俺は思う。日本人の性質ってやつか?
 ともあれ、二階にいる俺では時間がかかってできないことだ。

「助けに行ってやれよイロイ」
「……と、とつぜん他人が現れて、変に思われないかな?」
「ヘーキヘーキ」

 おら早く、と急かすと、イロイは慣れない動作でベランダについてるちゃっちい柵をのりこえる。一階とはいえ地面とバリアフリーなわけではないので、柵をのりこえるとそれなりの高さ落下することになり、着地時に少しよろつく。それから「ヘイ!」と車いすに声をかけて道路のほうに走っていった。アメリカにおける第一声についての知識に妙な偏りがあるらしい。あいつはあれしか言わない。
 俺は自分のキッチンに足を運び、冷蔵庫を開ける。パックに入った卵を二つほど持って、玄関から外に出た。外階段で一階に下りると、猫を抱えたイロイと車いすに座った若い男がアパートの入口に並んで入ってくるところだった。
 状況がよくわからなかったが、とりあえず聞いた。

「卵二つで足りるか?」

 イロイは抱えている猫の頭に自分の口を寄せて、猫をやや上方に抱えなおす。

「悪いけど足りないにゃー、もう二つ追加だにゃー」

 脛を蹴ってやった。先に笑い声をあげたのは、イロイではなく、隣の車いすに座った男のほうだった。










 結局イロイは『オムライス』を三人分作った。チキンライスも追加で作っていた。俺の知り合いでキッチンに十キロの米袋を複数常駐させているのはこいつくらいだ。非常時の飯に困ったらこいつを頼ればいい。
 車いすの男はジョニィといって、このアパートの住人らしかった。なによりも驚いたのは彼が事故で入院していたことでもまだリハビリ中であることでもまだ車いすがいる状態なのに二階に住んでいてべつに移住する気もないことでもなく、そいつが俺の隣に住んでるってことだった。だって顔も見たことない。隣に誰か住んでいるのは知っていたし、最近気配がないなとは思っていたが。腕の力だけで階段の手すりにつかまって二階へあがることはできるが、車いすを二階に運ぶことはできないということで、アパートの前の自転車を止めるスペースにかろうじて屋根がついていたので、その片隅に畳んだ車いすをおいているらしい。そういう扱いでいいのだろうか。ジョニィは車いすから下りた状態でも普通にイロイのキッチンに行ってなんやかんや調理の手伝いをしていたみたいだし、車いすだからって困難のある生活を送っているというわけでもなさそうだったので、べつに俺の心配事が増えることもないのだろう。
 夜の空気のなかにも、まだ昼間のあのにおいが残っている気がした。実際そうなのかもしれない。イロイの部屋はきっとまだトマトくさい。

 ベランダに出るのはべつに趣味じゃない。入院で長らく部屋を空けていたジョニィがさっき隣で自分のベランダに「うわっ、汚っ」と声をあげて諦めて部屋に引っ込んでいったが、窓は開いている。ベランダでの会話にプライバシーなんかあるわけない。それでも真下にある窓からは、わずかな光も漏れていない。もう寝たんだろう。それで、斜め下の窓からは、カーテンの隙間からわずかに光が漏れているのが確認できた。柵を背もたれにして座りこんで、しばらく待っていると、窓の開く音がした。涼しいわけでもないのにあまり窓を開けたがらないのが、誰かさんのせいじゃないといいのだが。

「なぁ、イロイの想い人さんよ」

 窓を開けただけで、べつにベランダに出る気とかはなかったんだろう。それでも空間がつながったなら、声が聞こえるはずだ。睡眠中であるイロイには、聞こえなければいいなと思った。
 イロイの隣人が、窓から顔をだす。俺はベランダの柵から身を乗り出している。あんまり愛想のあるヤツじゃあねぇもんなぁ。すぐ引っ込んじまうかもしれない。だから俺はすこし早口になる。

「もしまだイロイがお前さんを好きだとか言ってきてるんだとしたら、ちょっと聞いてくれ。今あいつ、珍しく人間に恋ができてるんだ。このさい男同士とか言ってらんねーし、だからってべつにくっついてくれだなんて言うつもりねーんだけどよ。なぁ、あいついろんなものに恋をするんだ。建物でも、動物でも、まぁ人間にも。んで、新しくした恋に、ひとつ前の恋を引きずっちまうんだ。なんでだか知らねーけど、あのなっ、前に猫に恋してたからって、次に恋した女の子を猫扱いするんだぜ、信じらんねーだろ。……なぁ聞いてるか?」

 あんまりにも沈黙が濃いので心配になって聞いてみると、気だるげだが返事が返ってきた。すこし、先を急かすような相槌にも聞こえた。

「俺、あいつと仲いいんだけど、どうしてあいつがそういう風なのか、知らねーんだ。聞いても、はぐらかされる。イロイは俺に、そういうことを、話さない。イロイが、そういう……きっとあいつにとっては大事なことを、誰かに話すとしたら、それは」

 なぁ、心のよりどころってあるだろう? 誰にもさ。家族でも、恋人でも、宗教でも、なんでもいい。あるだろう? 揺るがないものが。いつでもしがみついていけるものが。なくたっていい。ない場合、それはきっと自分自身なんだろう。イロイはきっと『恋人』にしがみつきたいんだ。それは、わかる。理解できる。けれどあいつのやりかたじゃあ、いつになってもしがみつける相手を得られない。

「それはきっと『恋をした』相手だけなんだ。あいつ、好きになったヤツのためなら、きっとなんでもする」

 再び深い沈黙がおりる。がらりと窓のうごく音がした。少し焦ったが、斜め下の住人は窓の枠に手をついただけらしかった。

「……それはべつに、俺になにかしろっていう話ではないな?」
「あ……ああ、そうだ。べつにアンタにイロイをどうにかしてほしいって話じゃない。ただ……今現在それができる人間がアンタだけっていう事実を、教えたかっただけだ」
「じゃあ俺は、へぇ面白い話を聞いた、と思うだけだな」
「……おう」
「要件はそれだけだな?」
「だけ、だ。……時間とらせて悪かったな」
「そうか」

 窓を全開にしてから、斜め下の住人は部屋のなかに戻る。相変わらずの態度だったが、予想とは少し違った。イロイに対する嫌悪感がそこまでみられなかった。めんどくさそうにはしていたように見えたが。
 他人任せなんてらしくないことをしたにも関わらず、どこか肩の荷が下りたような気分だった。

「なぁ、ジャイロジャイロ」

 ひそめた声が、隣から聞こえた。いつのまにか隣の部屋からジョニィが顔を出していた。俺が気がつくと、彼はベランダの柵をつかんで自分の体を引き上げる。俺とほぼおなじ視線の高さになってから、言葉を続けた。

「いまのなに」
「わり、聞こえてたか、やっぱ」
「いまのなんだよー」
「お前もその部屋に住んでりゃそのうちわかるって。窓はなるべく開けときな。あいつらたまに夜ベランダで話してるから」
「イロイと、その隣人? てかぼくの下に住んでるやつか。そうか。へーえ……」

 その隣人どんなヤツ? とわりと無邪気に聞いてくるジョニィに、俺は言葉を濁した。俺自身もよく知らないし、あとなんだかあれだ、とてもこのジョニィとイロイの隣人の馬が合う気がしなかったのだ。なぜか。
 この潜めた声が、斜め下の住人に聞こえませんようにと祈りながら、図太いヤツ、とだけ答えた。



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