▼ The first time of mine
鉄を無理矢理曲げるときのあのぎちぎちとした悲鳴みたいな声が好きだ。ああ熱が足りないのだと、俺は炎を強くするだけだけど、ほんとうはそのまま力ずくで折り曲げて、へし折ってしまいのだ。
君のこともたぶんきっと。
隣の部屋の窓が開いた。聞こえてくる物音はそれだけだ。生活音なんかは一切しない。ここの壁はけっこう分厚いのかもしれない。いつもみたいにベランダに出てようと思って、窓枠にかけた自分の手が震えていることに気が付いた。しばし行動をやめて考える。俺は怖いのかな? そりゃあ誰だって嫌われるのは怖いと思うさ。でも、すきでいることをやめたら、きっともう誰にも愛してもらえなくなる。それに『隣人』は怖い人なんかじゃあない。
なら、へいきだ。
俺はただちゃあんと、正しく、恋ができていればいい。
そっと、窓を開ける。からから安っぽい音が響く。隣人が窓を開く時はがらがらって音がする。ちょっとだけ重低音チックになる。隣人マジックだ、と思う。
隣人は人があんまり好きじゃあない。アメリカに来てうわあすげーなって思ったことのなかに、この国のひとは基本的にフレンドリーだってのがある。ハァイ、って声かけたら、とりあえず誰だって返事をしてくれる。とりあえず笑顔をつくってくれるのだ。発音時の特徴からして隣人はたぶんイギリスから来た人だと思うんだけど、イギリス人ってアメリカのひととは違うのかな。そんな風に感じたことはなかったから、それは隣人だけのことなのかもしれない。あるいは、俺に対してだけのこと、か。はっきりとした拒否をよこさないのも不思議だ。俺に愛想のかけらもくれないのなら、悪態のひとつやふたつついたっていい。俺がベランダに出たとたん部屋の中に戻るとか、あからさまな行動くらいとったっていい。それもしない。隣人は俺を受け入れる気はさらさらないけれど、まだ完璧に俺のことつっぱねていいのか迷っているのだ。
何故迷っているのかは知らない。けど俺のこと拒否しないんだったら、俺はそこにつけこんでぬくぬくと恋をさせてもらう。それだけだ。
ベランダに踏み出す。俺のベランダには今日の昼間から物干し竿がついている。新入りだ。ベランダに洗濯物を干すようになるとベランダに出る口実が増え結果的に隣人に会える機会が増えるんじゃないかと思ってそうしたんだけど、隣人昼間はたぶん部屋にいないんだよなぁ。たぶんこれ意味なかったよなぁ。でもシーツとか干す時便利になったよなって自分をはげまして、外の風景に目もくれず身を乗り出して、隣人に話しかけた。
こんな無愛想なひとにどうやったら好かれるかなんか知らない。
だから俺はいつもどおり『隣人』に声を、かける。
「こーんばーんは」
「……やぁ」
隣人に話しかけるのはこれで三回目だけど、たぶんこれが今までで一番いい反応だったと思う。横目でこっちをちらりと見ながら、口を開く時にほんのちょっとだけ目を伏せるのがきれいだった。芸術作品でも眺めるかのようにじーっと視線を送っていたら、さすがにうっとおしかったのか目を塞がれた。冷たい指だった。少なくとも夏の夜よりはずっと冷たい。
「なぁ、お前は俺が好きなんだったな」
「うん」
こくりと頷く。すこし大げさにそうしてしまったのがいけなかったのか、隣人の指先が離れていった。再び俺は視界に隣人をとらえ、彼の言葉を待つ。
「そういうヤツなのか?」
「……ゲイかどうかってこと?」
「そういうわけじゃあないのか」
「男を好きになったことは……ああいや、ないとも言えない」
「……」
「エッフェル塔の性別ってどう思う?」
「……、……は?」
「惚れたことがあるんだけど、ちょっと調べたら女性と結婚してるって出てきてさ。ソッコー失恋したんだけど、俺既婚の事実を知るまでエッフェル塔ってどっちかと女性のイメージがあったから、エッフェル塔が男なら君が二回目」
「…………、そうか」
……、ちょっとだけ動揺されたな。
ジャイロに言ったときは、まぁそのとき酒が入ってたせいもあるんだけどとりあえず一旦爆笑されて、後に冷静になった彼にすごく真面目に心配された覚えがある。言わなきゃいいことなのかもしれない。俺がふられるきっかけだいたいこういう話だし……。でも、俺を愛してもらうには、ちゃんと俺のこと知った上で、そのまんまの俺を愛してもらわないといけない。だから好きになった人に、嘘や隠し事はできない。したくない。
「……あ」
隣人がなにかに気が付いたように声をあげる。流れ星でも流れたのかと思って隣人の視線の先を追うが、あいかわらず真夜中の住宅街は真っ暗だ。どこかの窓から明かりが漏れていたっておかしくないのに、夜更かしをしているのは俺たちだけ。
「……『愛せたもの』か」
「隣人?」
「……ほかには」
「うん……。……うん? なにが?」
「惚れたことがあるもの」
「……」
「……ピラミッドは」
「あっ、あー、中3のとき……ほら、クフ王の、いちばん有名なやつ」
「ふ、それはどうして、叶わなかったんだ?」
「世界遺産だった……」
……隣人、いまちょっと笑った?
気のせいかな。闇の中のことだ。よくわからない。
見えるのは隣人の手元だけだ。彼は指折りでなにかを数えていく。
「犬、サル、猫……人間もいたな。あれ全部惚れたことのあるものなのか? 恋多き人生だな。あんなものとこの俺と同列に扱うとは、生意気だ」
「…………あっ」
「なぁ、どうしてあの部屋にはタイトルがないんだ?」
「りっ……、隣人きてたの、あの展示会……っ」
「行ってなんかいない。通りかかっただけだ」
「……あ……」
「……」
「……ありがとう……」
「……俺はあの部屋、大っ嫌いだぜ」
「うん……!」
やっと言えた、と息をついて、隣人は俺に向き直る。俺は言葉もだせずにただただ頷いていた。胸がふるえていた。展示会をやってたのは俺が隣人に接触する少し前のことで、だから俺はすぐさま「これって運命だね」とかほざいて隣人の手をとって口説き始めるくらいのことをするべきだったかもしれないのに、それができなかった。そんな風に胸がさわぐのはきっと初めてのことで、はじめて隣人を見たときみたいにわくわくしている。どうしてだろう。自分の作品を誰かに見てもらうことなんかたくさんあった。好きになった人に自分の作品を見せに行くことだってあった。けれどこんな風なのは、はじめてだった。
そう、はじめて、だったんだ。
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