Unbreathed love syndrome | ナノ


▼ This fate can be regretted.


 どこにでもあるようなアパートの、座ることもできないくらい狭い、とりあえずつけました感満載のちゃちなベランダで聞いたその男の名前には、聞き覚えがあった。見覚え、かもしれない。つたなくはないが、決して流暢ではない英語とその名前をきいて、ああ日本人なのか、と思った。そう思ったことに、覚えがあった。


 聞いたことない名前の大学だった。なんの用で出歩いていたかまでは覚えていないが、とにかくそれを見かけたのはなにかを待っているときだった。それはバスかもしれないし、タクシーか、あるいは誰かと待ち合わせをしていたのかもしれない。そして俺はそれまでに時間を潰さなくてはいけなかった。そこらの喫茶店に入ってみてもよかったが、その聞いたことのない大学の名前がはいっている門の奥に広がる道や、芝生の上に、さまざまなオブジェが並んでいるのが見えた。ちらほらと人が入っており、それを写真におさめたりしていた。ああ芸術系の大学なのだな、とわかった。俺はその大学の敷地に足を踏み入れた。切断された鹿をプラスチックだけでつくったような像や、庭の樹木に巻きついている巨大な蛇のようなもの、通路が白と黒のピアノの鍵盤を模したものになっていたり、いたるところにある『おかしなもの』が、すべて作品らしかった。ちょうど、そういった作品を展示する期間だったらしい。
 建物の中に入るつもりはなかった。どうせ受付とかが構えてて、声をかけられるんだろう。そういうのは面倒だ。こちらとしては、単に時間をつぶしたいだけなのだから。
 アルミ缶で作られた人型の像の前を通る。作品の前には、その作品のタイトルと、作者の名前、作者の短いコメントか書き添えられたカードがどこかに添えられてある。暇つぶしなのでなんとなくそれらの文字も追っていたが、流し見ているだけだった。カードの内容を覚えている作品はたったひとつだけだ。
 それは物置のように見えた。実際、そのような使われ方をしている小屋だったと思う。車一台がギリギリおさまるかどうかってサイズだった。普段は『関係者以外立ち入り禁止』とでも表示されていそうはドアは開いていた。その小屋の前にも、カードがあった。作者の名前は読めなかった。画数の多い、たぶん漢字ってやつなんだろう。中国人か、あるいは日本人か、と思った。その読めない漢字の右下に、添えられるようにローマ字表記のアルファベットで、読みがふってあった。トコサカ、イロイ。イロイってやつのほうが名前だ。多分。タイトルはつけられていない。カードに書かれているコメントはどこかそっけない。

『俺が愛せたものの全てでした』

 どこか既視感のある部屋だった。今までのオブジェも当然動物や雑貨などを原型としていたが、それに作者のオリジナリティ入っていた。けれどその部屋のなかにあるものは、エッフェル塔やピラミッドの模型、剥製のようによくできた猫や猿、犬だった。床には人間の絵が何人か描かれていた。リアルに描写されているが、顔のところにはモザイクがはってある。部屋の中はひとつの町にようにつくられていたが、どこか異様な気配がした。あくまでこれは『よくできたにせもの』なのだと思った。そういうものにも価値があるのかもしれないが、少なくとも俺は拍子抜けした。部屋のなかに置いてあるモノには統一感がなく、変な雑貨屋にでも来てしまったみたいだった。
 気に食わない、そう思ったのを覚えている。
 あの部屋は支配されすぎている。
 どこかの町を模したようでまったくわけのわからないことになっている部屋の中央には、一本の川が流れている。川の水はクラゲの死体のようなわけのわからない物質でつくられていた。
 川には、橋がかかっている。
 奇妙な橋だった。
 俺はその橋にだけ、既視感をおぼえなかった。植物の根が変形してそうなったような、何本もの細い棒を編みこむようにして形成されている、いびつな橋だった。全体的な形としてはアーチを描いたものになっており、上を歩くことができた。足を踏み出すたび、きん、とにぶい金属の音がした。この橋は金属でできている。それもまた、なんだか不快だった。腕時計に目をやって、時間を確認する。もうここに留まる必要はなさそうだった。
 俺はあの部屋が嫌いだと思ったのだ。
 心の底から。
 そしてきっと、トコサカ、イロイ、のことも。





 もっとさりげなくを装えばいいものを、こちらがベランダに出た途端隣の部屋の窓が「隣人!」という声とともに開くものだから、寒気通り越して疲れがやってきた。少しだけ外の空気を吸おうと思っただけだった。イロイと会うのはこれでまだ二回目なはずなのに、部屋からのわずかな光に照らされた彼の表情は子供みたいに無邪気な笑顔だった。

「ひ、ひさしぶり」
「……ああ」

 無視をやめてやった。俺の精一杯の譲歩だったが、イロイはほっとしたように肩をおろして、自分のベランダの手すりに腕をあずける。今すぐにでも自分の部屋のなかに戻っても良かったけれど、彼がそこにいるからなんて理由でどこかに逃げるのは癪だった。なんとなくなにかと戦っているような気分になりながら、イロイの言葉をまつ。なにひとつ聞いてはいなかったが、はじめて会ったときはやたらとべらべら喋られた。どうせ今日もそうなんだろう。

「……」
「……」
「……」
「……?」
「……、あ、ごめん隣人。ちょっとくらい喋った方がよかった?」
「……なにが」
「この前俺がなに言っても無視してたじゃあないか。煩いのは嫌いだったかなと思って」
「嫌いだが」

 ていうか、お前が。
 わざわざ言うまでも無いとおもって心に秘めたままにしたつぶやきに、自分でめんどくさい気持ちになった。なんというか、関わりたくないのだ。関わりたくないのに俺は、イロイが嫌いなのだ。それはすごく矛盾している。嫌い、という感情は、ある種の執着だ。

「そっかぁ。俺おしゃべりなんだよね。隣人うるさかったらうるさいって言う人だと思うから、あんまり遠慮しなくていいかなとも思ったんだけど」
「……」
「……俺の名前、イロイっていうんだ」
「知ってる。この前聞いた」
「隣人は?」
「どうしてお前に名乗らなくちゃあいけない」
「……うーん……、そうだな、いやならいいけど」

 ちょっと困ったように笑って、イロイは俺から視線をはずした。手すりに乗せた腕に体重をあずけて、足から地面をうかして遊びだす。彼の体がベランダからじりじりと乗り出していく。あの背中をおしたらそのまま地面に落ちていきそうだ。
 やっぱりどこか面倒な気分で、部屋の中に戻ろうと思った。さっきからなにか釈然としないのは、なにか大事なことを忘れているような気がするからだ。いや、忘れてるんじゃあない。意図的に記憶から消そうと思った……、

「でも、好きな人の名前くらい呼びたいよ」

 ああ、そうだ、思い出した。
 コイツ、俺に――――、

 がくりと項垂れそうになる。このくらいで気分を害されてたまるかと思ったはずなのに、ベランダに続く窓を閉める音がいやに大きくなってしまった。




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