Unbreathed love syndrome | ナノ


▼ Nobody is surely rewarded.

 斜め下は、ほとんど死角だ。アパートだからな。それぞれの部屋のプライベートは、ある程度保たれていなくちゃあいけない。といってもベランダに出てしまえば、隣人とはなかなかに親しい距離だ。とくに仕切りがあるわけじゃねーからな。
 だからもし斜め下に住んでいる人間が、イロイ・トコサカなんていう厄介な人間に惚れられていなければ、そいつと俺が話す機会なんてなかったんじゃねぇかな。

「よう、“隣人”」

 夜だ。生ぬるい風が吹いてる。窓でも開けないと暑くてやってらんねーなって、そんな季節。なんとなくベランダに出て涼みたくなるなんて、めずらしいことじゃない。
 眼下にあった人の頭がうごいて、上目遣いになったそいつと視線が合う。俺はそいつの顔を見てまず、あれ、男じゃね? と思い、しかしなんとなく顔を眺めているうちに、まぁでもあいつにはどうでもいいことなのか、と思いなおした。

「隣人?」

 斜め左下から、トゲのある声。自分の時間を邪魔されて不機嫌か?
 なぁジャイロ、隣人がいたんだよ。
 数年のつきあいになる友人の言葉を思い出す。そいつの名前はイロイといって、日本人だ。だからってわけじゃねーけど、なんかどっかヘン。友人としてはいいけれど、隣人としてはサイアクかな、と俺は思いますよ。

「イロイに惚れられたんだろ、アイツ、言ってたぜ」
「……ああ……」

 下に居る人間の表情は見えない。うっとおしそうな相槌が帰ってきて、それから俺が黙っていると、ちらりとこちらに視線を寄越して、溜息だけついて部屋の中に戻っていってしまった。
 愛想のない。
 だが、あのくらいの人間のほうがいいのか。
 イロイには。

 イロイは、ハッキリ言って病気だ。いや、違うけどな。アイツに当てはまる病気なんかないんだけどな。いっそ病気だといってしまった方が精神的に楽になるくらい、変わった人間、と言っておこうか。イロイは恋というものに依存して生きている。あいつは誰かを好きでいなくちゃあ生きていけない。恋する相手は誰でもいい。というか、なんでもいい。エッフェル塔でも、ピラミッドでも、猿でも犬でも鳥でも鹿でも! そもそもアメリカへの留学を決意したきっかけがグッゲンハイム美術館の構造に惚れたからとか言ってたからな。せめてそこは自由の女神像だろ? そのなかには一応人間も含まれている。イロイはいつもいろんなものに恋をしていて、そしてその恋はたいていすぐ終わる。エッフェル塔でもピラミッドでもグッゲンハイム美術館でも、鹿でも猿でも、そんなものに恋したって結果は同じ。どれもイロイを愛してくれるものじゃあない。見返りのない愛情を注ぐことに、アイツは耐えられない。
 たまに、イロイが人間に恋をする。彼は一生懸命、その恋を成就させようと頑張るのだけど、なにせ人間相手の恋なんて、そうたまにしかしないからな。アイツはなにかまずいことをやらかして……、だってアイスクリーム屋の女の子にあげるプレゼントがキャットフードはないだろ? 前の恋の相手が猫だったの引きずってんだよ、バカだろ。そう、そんなことばっかして、あいつはどんなに愛を叫んでもすぐにフラれる。あいつは色んなものに恋をするのに、新しい恋をしたときに、前の恋を引きずってしまうのだ。
 うまくいかねーよなぁ。それじゃあさ。
 この前動物園のライオンにアイスクリーム差し出して飼育委員に怒られたとか言ってたっけ。馬鹿だなぁ。そのアイスクリームいっこ前の恋のときに使えよなぁ。
 多すぎるイロイの恋を、ひとつひとつ知っているわけじゃあねーけど。
 今、アイツが隣人に……珍しく人間に、恋をしているのだとしたら。
 その前に、一体なにに惚れていたのだろう。
 それが心配だ。
 うまくいけばいいなんて思ってないけどさ。
 そうだな、これはきっと、医者志望としての、心配だ。
 あいつの病気が、どっかで終わんないかなって。
 わりと気苦労なんだよな、アイツの恋模様見てるのって。
 せめてこの気苦労を分かち合える、新たな友人が欲しいものだ。
 恋をしてなきゃ、息もできないなんて。
 いったいどうしてイロイという人間は、そんな風になってしまったのだろう?

 かたん、と音がする。音のした方向からするに、イロイが帰宅してきたのだろうか。上の階にいると、下の階の音ってそんなに聞こえないんだけど、イロイは静かに動くような人間じゃないからわかりやすい。
 たかたかと足音がして、真下でベランダの窓が開けられる。

「よぉ、イロイ」
「ジャイロ? なぁなぁ、隣人の部屋、電気ついてないけど、まだ帰ってないのかな、それとももう寝ちゃったのかな」
「さぁな。俺はお前の隣人じゃないから、わかんねぇなぁ」

 さっき、イロイの隣人に話しかけたときみたいに、ベランダから身を乗り出す。イロイもそういう風にしてて、ちょうどよく顔が見える。

「お前がベランダに出るのって珍しいよな」
「ここにいたら隣人と顔を合わせられるかもしれないだろ」
「はぁ、隣人ね。どんな奴か知らないけど。どこに惚れたの?」
「そんなのわからない!」

 ああ、そう。
 恋は突然やってくる、ね。
 ロマンチックな言葉だが、こいつに言わせちまったら寒々しいだけだよなぁ。

「まぁ、がんばれよ」
「うん。まず隣人の名前を聞き出さないとな」
「そうだな。でもほどほどにしとけよ。しつこいと嫌われるんじゃねぇの」
「ああ、それはつらいな」

 つらい?
 どのくらい?
 報われない恋を何百と重ねて、きっとこいつは、それでもなにも得てなんかいない。
 意味なんかあるのかね、そんなんで。
 ああ、こいつの病気のわるいところは、こいつを診る医者が疲弊しちまうのに、当の本人はなんにもわかってねぇことだよなぁ。
 あーあ、くっだらねぇ。






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