楽園偏愛録 | ナノ


▼ さようならのその先で02



 波の音を聞いていた。そうすると落ち着く気がしたのだ。丘の上に一本だけそびえている木に背中をあずけて、ただじっとしている。
 貴方に会えてよかったんだと、もう何度繰り返したのだろう。
 旅の途中、そういうことを飽きもせずに、貴方に言って聞かせればよかった。
 じゃないと、伝わっていたかどうかわからない。
 私の人生のなかで、貴方と過ごした時期なんてほんのちょっぴりなのに。私はそのほんのちょっぴりの記憶に、救われてきている。
 目を閉じる。
 天国なんて信じていない。もちろん、地獄も。死んだらきっと、私というものはどこにもいけないんじゃないだろうか。ただここで、朽ち果てていくだけ。だからもう、どう足掻いても、貴方には会えない。
 もし、とんでもない確立のアタリくじをもう一度引き当てることができたとしても……。
 つまり、また、貴方に会えたとしても。
 貴方は私を望むだろうか。
 私は貴方になんにもしてあげられなかったのに。貴方の助けになんて、これっぽっちもなかったのに……。
 それなのに、貴方にまた会いたいなんて、そんなことを望む資格が、私にあるのだろうか。
 静かに動く自分の心音に耳を傾ける。
 もうすぐ、私もやっと、自然のなかに帰れる。
 けど、貴方には、もう――――、
 もう、二度と。





 『すり替わった』ような感覚がした。やけに濃い夢とかを見たときに、夢の中の自分の設定がそのまま引き継がれているように感じることがある。今の自分の状況を冷静に判断できなくなっているのだ。夜、きらびやかな明かりの中でダンスでもしている夢を見たとして、起き抜けにまだその感覚が残ってしまっていて、『今まで寝ていて、今、起きた自分』という存在を認識できなくなる。それはしばらくベッドの上でごろごろしていればしだいに現実がわかってくる。けれど違った。いつまでたっても、その本来の自分が戻ってこないのだ。夢の中で私は、丘の上に居た。海がよく見えた。あんなにきれいな海を知らないと思った。だからきっと夢の中だけの光景だったのかもしれない。そこで私はひたすら誰かに会いたがっていた。けれど、その人に会う資格なんて自分にはないのだと思っている。そういう『私』が、夢から覚めた今この瞬間の『私』に引き継がれたまま、もどらない。そういう奇妙な感覚があった。
 隣の人間がちょいちょいと私の肩を指でつついてくれていた。とりあえずぐったりと机に伏せていた顔をあげ、講義室の前のほうで喋る教授の言葉をメモするふりをした。わりと本能的な動作だ。
 ぐらぐらする。なにもかもが不安定だ。今私はなにをしてるんだっけ。どうして講義室にいるんだっけ? どうしてあの教授の話を聞いてるんだっけ? どうして今は寝てはいけない時間なんだっけ?
 おぼろげだ。なにもかも。
 ただひとつだけ。
 この時間が終わったら、私は食堂前に行かなくちゃいけない。




 閉店三十分前の食堂には、それなりに人がいるような、昼食時に比べれば空いているのか、ちょっとよくわからない。ただそんな、それなりに人がいるようなところでも、待ち合わせた相手が午前中に会ったばかりの他人なのにすぐ見つけられてしまうのはどうしてだろうか。

「……眠たそうだな」
「……うん……なんかね」

 私の顔を見て、眉をひそめて呟いたディエゴに、寝起き声で返す。どうにも今日は、眠たい。いつもはこんなんじゃないのに……。まだ夢が覚めていないような……。だって私はまだ思ってる……会いたい……。誰かに……。その誰かは……。
 ヒーロー、会いたかったよ。
 けど私は……。

「……俺はただ、君に聞きたいことがあっただけだ。すぐ終える」
「……ああ」
「……本当にどうしたんだ? 歩けるか? 座って話そう」

 手をひかれる。その感覚に覚えがあるが、そう認識した脳がなんだかゆるせなくて、首をゆるく振った。自動販売機がいくつか並んでいる前にあるベンチのひとつに座らされる。ディエゴは私の正面に立ったまま、こちらを窺っている。
 あたりに人はいない。

「……覚えているか?」
「…………なにを?」
「『覚えているか』、それが俺の質問だ」
「……だから、なにを、だよ……」
「とりあえず起きろ、キト」

 顎を掴まれて、無理矢理上を向かされる。目が合った。あの目を見てはいけないと知っていた。見たら飲み込まれていくのだとわかっていた。
 視界がだんだん広がっていく。起きてるさ。ずっとまえから。でも目なんか覚ましたくないんだ。そんな資格私には……。

「君が……図書館で机の上に置いていた本が『アレ』でなければ、話しかけようなんて思わなかったが……。……なんだ、こちらの勘違いか」
「……?」
「『人違い』さ、キト。君によく似た誰かと、間違えた。それだけのことだ。時間をとらせてしまって悪かったな」
「…………いや、いい……」
「そうか」
「…………」
「……元気でな」
「……いや……」
「……」
「……待って、」

 ディエゴの腕を、掴む。貴方を引き止めること、私は得意じゃあなかった。
 
「わ……私も、聞きたい、ことがある……。貴方に」
「……俺に」
「ディエゴに」
「……なんだ?」
「し……、」
「…………?」
「……しあわせ?」

 幸福だったか?
 あるいは。
 今、このときを生きている貴方は。
 『幸せ』?

「……私は、貴方が幸せなほうが、いいんだ……。そのほうが……。でも、私、貴方がそうあることに対して、なんの力にも、なれなかった……」
「……キト?」
「……っ、なのに、私は……」
「バカ、待て、」

 ディエゴはすこし焦ったような様子で、両手で私の目を塞いだ。

「……こんなところで泣くな……」
「…………あ……」

 あたりにあるわずかな喧騒が耳に入ってくる。完全に無人なわけじゃあない。
 ここは、私の通っている大学の食堂で。
 レースの途中立ち寄った町でとった宿じゃあない。

「……キト、歩けるか。場所を移すぞ。悪目立ちだ」
「……ど、どこに行くんだよ、」
「どこでもいいだろ」

 手を、強く引かれた。私は自分の瞼をおさえたまま、前もみないでそれについていく。
 知ってるさ。
 遠い昔。私だけど私じゃない誰かが、貴方と共に、長い長い旅をした。
 けど、その記憶を持っている資格は、私にはないんだ。あの『しあわせ』な記憶をもってここに生きる資格は……。
 私は貴方にこれっぽっちも、いいことしてやれなかったじゃあないか。
 なのに……。
 なのに貴方は、私を『見つけた』……。

 夜の風が冷たい。先ほどとは違い、辺りはしんと静まり返っている。私が名前も言えないようなよくわからない虫の声だけがあたりに響いていた。どこかの公園のようだった。ぼんやりとした街灯だけが唯一の明かりだ。公園のなかにあった冷めたベンチに再び座らされた私は、まず最初にディエゴの溜息を聞くはめになる。

「……わからないな、『どっち』なんだ? 君は?」
「……どっち、て」
「覚えているのか、いないのか」

 沈黙した。図書館でディエゴに出会ってから、したこともない体験の記憶が、じわりと染み出るように、私の記憶の置き場のなかに入り込んでいくような感覚があった。それがそうなんだろう。姿も名前も同じな貴方は、きっと私がずっと会いたかった人なんだろう。
 それでも、会っていい人だったんだろうか。

「……貴方、は……大統領に……殺された……んだよね」
「…………、覚えている、のか……?」
「……思い出した、というか……」

 わずかな明かりにだけ照らされるディエゴの姿は、ほとんどシルエットで、表情などは窺えない。なにかいろいろ考え込むようなそぶりをみせたあと、諦めたように彼は私の隣に腰掛けた。

「……君と俺が初めて会ったときのこと、覚えているか」
「…………『取引をした時』、だっけ。もちろん覚えてない」
「ハハ、そうだったな。……。……本当に君なのか?」
「……」
「俺と一緒に旅をした……俺のキトなんだな?」
「……貴方のじゃないよ……」
「ああ、そうだったな。君は君のものだ」

 どこか、私の記憶の中の彼とは違う、やわらかな雰囲気を感じた。違和感を覚えるのと思ったが、そうでもなく、私はそれをすんなりと受け入れている。

「……でも、『俺の』だ」




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