楽園偏愛録 | ナノ


▼ 空


 言い残した言葉なんて、ひとつもない。
 俺にとっては、の話ではあるが。



 焚き火を消しても、わずかに月明かりが射していた。しかし恐竜の目では、止まっているものを追うことができない。消したばかりの焚き火のあとの向こう側にキトがいるはずなのに、そこには闇しか広がっていないように見える。奇妙な感覚だ。確かにそこに彼女の気配がするのに、視覚のみがそれをとらえられていないとは。
 底冷えする夜だった。もう雪が降ってくるような緯度ではなかったけれど、それでも人間にはつらいんじゃないか、と思う。火を消してしまったから、もうどこをさがしても、温かいものなんてない。俺は暗がりの中をじっと見つめる。
 寝息が聞こえてくる。カンザスを出た先で、俺との契約書を捨て去ってからは、どうやら深い眠りに落ちることができるようになったらしい。それまでとは打って変わって早寝・遅起のガキみたいな生活スタイルに切り替わったので、それまでのキトと同一人物か、たまに疑う。
 そんなんだから、なにをしたって起きやしない。こっちを完全に信用しきっている。俺にとってそれがどうなのかはともかく、あまり感心できたことじゃあないな。簡単に人を信用する人間は損をしやすい。
 ……簡単なんかじゃあなかったって、君はどうせ言うんだろうが。

 キトは背中を丸めて、自分の膝を抱え込むようにして寝ていた。寒さで眠れたもんじゃないのかと思いきや、雪原のなかでもそれなりにぐっすりだったようだ。変なところでタフなのはいいが、それでも寒さを感じないわけじゃあないだろう。
 丸まった背中に寄り添う。彼女のすぐ隣に寝転んだ。冷たい地面が体温をすいとっていく。自分の毛布を彼女にかけてから、今度こそ目を閉じる。意味のない行為だ。なんの意味も。
 静かに繰り返される自分以外の呼吸を、ただただ聞いている。
 ……それだけで今は充分だった。

 隣で身じろぎをする音が聞こえた。キトが寝返りをうったらしく、彼女の右腕がこちらに投げ出されてくる。目を閉じたまま、本能的な動作でその腕を掴む。扱いに困った。彼女のほうへ押し戻してもいいが。彼女はこちらに背中を向けるのではなく、仰向けになって寝ている状態にあるようだ。ちらりと見やると、左手は毛布を二枚ともひっつかんでいるのに、右手だけどうしてか投げ出されている。温度の高いものに向かって、本能的に手を伸ばしたのか。そういえばやけに冷たい腕だ。指先も、冷たかった。彼女の手のひらにそうやって触れていると、ぴくりと指が反応を示し、きゅ、とゆるく、俺の手をにぎってくる。
 ガキか、本当に。それともただ、寒いだけか。
 どっちもでいいけどな。
 どうせ君は、ぐっすり寝るんだ。先に起きるのは、俺のほう。
 なんにも知らないまま、ただ眠れ。
 凍えることはないだろう、それだけは保証してやる。
 キトの手を握り返した。
 たったそれだけの、夜だった。








 風が吹いている。
 伸ばした手が、どこにも届かないのが、ただただ悔しかった。
 大統領は、殺せただろうか。
 ……なのにこんなザマじゃあ、意味がないが。
 ちぎれた自分の体の一部を、視界の一部にとらえる。
 大統領はどこだ。殺しきったはずだ、まだ生きているのか、もういれかわってしまったのか。
 ああ、俺は。
 こんなところで終わるはずが……ない、のに。
 もう、自分の頭すら、持ち上がらない。痛みは麻痺しているからか、感じない。
 地面なんかを見て、終わりたくなかった。手を伸ばす。その手がなにを求めているのかは、自分でもわからなかった。それは大統領のはずだった。奴を殺しきるための手のはずだった。
 手を伸ばす。
 視界のはし、ほんのわずかに、空が見える。
 君はいつも、そこにいた。

 なぁ、キト、言い残した言葉なんて、ひとつもない。あとで悔いるような生き方を、俺がするわけないんだから。
 けど、それでも。
 また君と、話がしたい。
 俺が君に望むのは、結局それだけだったんだ。
 君とテーブルをはさんで、お茶でもしながら、バックギャモンをやろう。君の手にはひとつの怪我もないし、俺の機嫌はいつもよりほんのちょっとだけ、いいかもしれない。それが、俺にとっての最善。
 でも、それでも、そういう未来があったとしても、君が俺についてきて、一緒に旅をしたことに、ひとかけらの後悔もないんだったら、それは……。
 ……それは、君の旅だ。君が歩んだ、君だけの。
 ……誇れよ。

 ……、俺は君が……。
 …………。
 ……。



 
 ずるずると、自分の身体を最後まで引きずって、どこまでも向かおうとしていた男の腕が、その指先が、ついにぴたりとも、動かなくなる。力尽きて死んだ人間の遺体なんかじゃあなく、どこまでも飢え、なにかを追い求めた、恐竜の化石だった。
 風だけがそれをさらう。
 なにかを待つように。
 その先にあるものへ、導くように。
 
 




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