楽園偏愛録 | ナノ


▼ 01

 ノックの音がしたとき、元ウサギの恐竜がとくに警戒をしていない様子ならば、訪問者の正体はディエゴだ。恐竜がどこかに隠れようとするなら他人。
 ドアを開ける。金銭的な問題で、私とディエゴのとっている宿は別々だ。私はわざわざ高いホテルに泊まりたいとは思わないというか、そのぶん浮いた金で旅支度でもしないといけないからな。ディエゴはいつもなにか言いたそうな、変な顔をするのだけれど、だいたい私たちは別々に宿をとっている。例外だったのは砂漠の中継地点の村で、彼の機嫌がやたら良かったときと、カンザスで一度別離したときだ。
 すぐに部屋のなかに入ろうとはせず、開いたドアに手をかけながらディエゴは口を開く。

「キト、ハサミ持ってるか?」
「持ってない。……それを聞くためだけに来たの?」
「俺は持ってる」
「は?」
「腕の傷、そろそろ抜糸すべきだろう。君は放っておくとナイフとかで糸を切ろうとしてさらに怪我をするとか平気でやりそうだし……」
「し、しないよそんなの」
「まぁ、さっさと中に入ってドアを閉めようか。シカゴは冷える」
「ああ、うん……」

 フィフス・ステージを乗り越えて、ディエゴの馬の調子もだんだん戻ってきている。このシックス・ステージでも無理はできないことに変わりはないが、前のステージほどペースを落とさなくてもいいだろう。トップ集団に追いつくことは目標としないが、これ以上離されるワケにもいかない、といったところか。
 私の怪我も完治しつつある。足はもう痛まないし、腕の包帯もそろそろとれそうだ。抜糸のタイミングをつかみかねていたのは確かだったし、ディエゴの申し出はありがたいとはいえばありがたい。しかし彼らしくない行動ではあるので、なんだかもやもやしなくもない。
 右腕の怪我はもうほとんど治っている。左腕は、恐竜が川に落ちた私の目を覚まさせるために何度も噛んでくれたので、何針か縫っていた。包帯をとる。黒い糸が皮膚を縫い付けている。傷口はほとんど閉じている。あとは糸を切るだけだ。抜糸は、自分ひとりでもできなくはないのだけれど……。

「動くなよ」

 糸が切りやすいような小さなハサミで、ぷつりぷつりとディエゴは糸を切っていく。貴方そんなハサミ持ってなかっただろ。どこで仕入れたんだ。
 切った糸を引き抜く。糸の通っていたところに小さな穴のかたちの傷ができる。消毒してから、包帯ではなくバンソーコーを貼るだけで済ませることにした。これでかなり動くのが楽になった気がする。
 これで、ちゃんと飛べる。

「ありがとう」
「ああ。これからのコースはミシガン湖に沿うように北上していくからな。君は防寒をきっちりしておけ」
「そのつもりだよ」
「で、だ」
「……?」
「どうしてこの部屋にはシャワーすらついていないんだ?」
「安い宿だから」
「身なりくらい整えろ。俺のとっているホテルに来い。シャワーくらい貸してやる」
「いや、そんな……」
「……1ドルで貸してやる」
「……借りよう」
「……君は金が絡むと決断力があがるよな」
「……まあ……貴方に親切にされるのは変なかんじがするからね。金銭的やりとりがあったほうが納得しやすい」
「親切じゃあなく、小汚い人間を側に置くことに俺が耐えられないだけだ」
「うん。それならいい」
「……面倒な奴」

 じゃあ、まず買い物に行こう。防寒ってどうしたらいいのかな……。着込めばなんとかなるか。手袋、厚いものに変えようか。あとは……なにがいるかな。

「雪とか降ってるかな? 今の時期でも」
「ああ。湖も凍ってるってさ。氷が厚ければ馬でも渡れるかもな」
「雪か……」
「天候しだいでは、君が飛んでいくのは難しくなるかもしれないぞ」
「そうだね。じゃあゴーグルを買っていこう。吹雪のなかでも飛べるように」
「……意地でも飛ぶ気か?」
「もちろん。そうじゃないと私は先に進めないだろ」
「……そうだな。俺の馬も回復してきたし、君を気遣ってペースを落とすなんてことはできない」
「うん」

 ディエゴは目を閉じる。ねぇ、深刻な問題なんてどこにもないよ。貴方はこのレースを続ける。遺体も集める。それでいいじゃないか。
 貴方は変わっちゃいけない。貴方は貴方のままでいないといけない。
 どこまでも生き抜けるような貴方で。

「……ホテルのキーを渡しておく。俺は夜まで部屋に戻らない。シャワーはその間に使え」
「ん。じゃあ1ドル今渡しておくね」
「……なぁ、キト。俺は自分のホテルからここまで来るのがすごく面倒だった」
「……」
「君、次から俺と同じところに宿をとれ」
「……。それが命令なら、従う」
「……ああ……。そのための金が足りないときは言え。いくらか出してやる」
「ううん。必要ない。お金は自分で作るよ」
「……キト」
「なに」
「俺は君の、どこまでも自分の利益を追求するところが、ちょっとだけ気に入ってた」
「……自分の利益か。今も絶賛、追求中だよ。私は変わってない。貴方についていくこと。貴方の足手まといにならないこと。今私が求めているのはそれだ」
「君は、それでいいのか?」
「……いいことなんだ。貴方といることが、私にとって」

 世界の広がる、あの感じ。初めて人を信じることができたときの、胸の高鳴り。
 そう、初めてだったんだ。この旅の経験全部が……。
 理由はわからない。そうだ、確かに貴方は、納得しないだろう。私だって、本当はそうだよ。
 でも、心が求めたんだ。
 貴方と一緒がいいって。
 しょうがないだろ、そういうのって。
 殺せるような衝動じゃあなかった。

「貴方は貴方のことだけ考えていなよ。私は勝手に貴方についていく。貴方にしてもらいたいことは、それを許容することだけ」
「……ああ」
「……貴方は私に、いいことなんかしなくていいんだよ」

 昔、貴方と貴方の母親を助けなかったことに、一抹の後悔もない。そんな私に、なにかしてくれなくたっていいんだ。
 私に会って、ディエゴに、いいことはなにか、あっただろうか。復讐ができると、ちょっとばかりの喜びがあっただろうか。なのに、貴方はそれを後回しにするといった。このレースが終わるまで。
 力になりたい。
 そのために、強くなりたい。
 だから私は、銃をとったんだ。

 ディエゴが出て行った部屋で、肌寒さを感じながら、ベッドに横になる。
 むずかしいこと、考えても、しかたがない……。まず、できることからだ。金が要る。ホテルをとれって? それってどのくらいかかるんだろう……。人の居るところでなるべく金を稼いでいこう。このシカゴでも……。
 雪が降ってきたら、飛びづらくなるかもしれない。だったら私はディエゴに先行するくらい、いまのうちに先に進んでおくべきだ。
 地図を開く。シカゴの北にある街は……ミルウォーキー。ここにディエゴより早く辿りついておこう。そして彼を待つ間、どうにかして金を稼ぐ。ミルウォーキー……。18世紀にはアメリカで一番大きな都市だった。今はどのくらい栄えているだろう。賭場なんかがあれば、一気に金を稼げるかな。いや、このくらいの街なら金持ちがいっぱいいるかもしれない。そいつらを商売相手にするには……どうしたらいいか……。まぁ、ついてから考えよう。どういった施設があるのかにもよる。
 地図を畳んで、物資調達に行く支度をする。
 とにかくまずは、旅支度をしよう。
 

 

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