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次に誰かとお別れしなくちゃあいけないときは、きちんとさよならが言いたいな。
これを貴方に渡しておくね。お父さんとお母さんの。失くしたらダメだよ。この手は握ったままでいて。これがあったら、お母さんとお父さん、いつも貴方の側にいるってことだからね。それを忘れないで。
知らない人の声が聞こえた。いや、多分知っている人だ。
どす黒い雲が近づいている。船のなかにいる人は身を寄せ合って、なにかに祈っていた。どうか、お守りください、と。母から握っていろと言われた自分の左手が、小さい。ほんの小さな、子供みたいな手だ。言われたとおりぎゅっと握ってる。痛いくらいに。
映像は切り替わる。
暗い暗い雨の海の中、私は水面から辛うじて顔を出している。四つの手が私の体を支えていて、そのおかげで私は息をすることができているようだった。そのかわり、四つの手の主、つまり二人の人間は水の中、溺れながらも私を水面の上に出そうともがいている。それがわかっているから、私は声をあげている。父と母のことを呼んで泣いている。雨の中、それでも必死に呼吸をしている。左手は握ったままでいる。
左手が酷く痛い。そこになにかを握り締めているからか。
雨が降っている。強い雨で、しばらくは止みそうもない。風も吹いている。あたりは暗い。地獄みたいだ。私は嘆いている。幼い私が。
左手が痛い。どうしてだ。その手の中にはふたつのピアスがある。それを握っているからって、なのにこんなにも痛いのだろうか。いや、痛いのは手じゃなくて、腕? 肘の下あたりが、ひどく痛む。何度も何度も、まるで何かに噛み付かれているかのように、そこだけが痛い。
水の中にいる。溺れそうな私と、溺れながらも私を支える父と母がいる。
水の中だ。冷たい冷たい水の中。
左腕が痛い。
恐竜に噛まれている左腕が。
目を開ける。水の音がする。水が轟々と流れる音だ。きれいな水じゃあない。泥水。氾濫した水。雨によって増水した水。私はその流れのなかにいる。顔に水がかかる。しかし、ぎりぎりのところで呼吸ができている。あたりは明るくなり始めている。いつのまにか夜が明けたのだ。雨は止んでいる。しかし、水の勢いはひどいままだ。
川。
私、川の中にいるのか。でも、不思議なことに、流されていない。急激な水の流れを肌に感じる。私の体も、なにかに吸い込まれるように、その流れに乗ろうとしている。しかし、身体はある一点で固定されているため、そうはならない。腰だ。腰に繋いだハーネス。今、私は仰向けになって川のなかにいる。身体は水面に対してほぼ平衡に倒れたような体勢になっている。顔をゆっくりと傾けて上流を確認すると、岩が見えた。岩。水の流れを裂く岩。川の中にある。岩と岩の間に、ハンググライダーの翼がうまい具合に引っかかっている。そのおかげで、私は流されずに済んでいるみたいだ。
岩にはさまっているハンググライダーは、ちょっとでも私が身体を動かしたらすぐにはずれて、水の流れに乗って流されていってしまいそうだ。
昨日、私は嵐の中、飛んだ。そして……落ちたはずだ。どこか、真っ暗闇のなかに。
でも……生きている。
偶然、雨によって増水した川に落ちたのか? そして流されているうちに、ハンググライダーがそこの岩にひっかかった……。かそうじて息ができる状態のまま、夜を明かしたのか。体のあちこちが痛い。それに寒い。ただ、左腕だけが熱く、痛みもある。そっと腕を水面から引き上げると、恐竜が私の腕に喰らいついていた。何度も何度も箇所を変えて噛み付いた跡がある。気を失った私のことを、ずっと起こそうとしていてくれたのか。
ぐらり、と。それまである程度安定していた自分の体が、水に流されそうになる。ハンググライダーが岩からはずれかけている。早くどうにかしないと、流されてしまう。
私が意識を取り戻したのを知って、恐竜が肩のあたりまで登ってきてくれた。つめたい唇を動かす。まともに動くのは左腕だけだ。
「ディエゴ」
貴方と約束した。たどり着くと。
それを違えるのは難しい。
「右腕も噛んで。水のなかに一晩いたからか、体が寒さでぜんぜん動かない。両腕が動けばなんとかしてみせる。噛め」
恐竜は私の言葉に一瞬、動きを止め、それから右腕に行く前に、私の鼻の頭に、けっこうガッツリ噛み付いていった。痛いっての。それからずぐ、右腕にするどい痛みを感じる。右手の指先を動かす。ああ、なんとかなるな。
あたりの状況を確認する。川はえらく増水しているようで、濁った水がすごい勢いで流れている。岸までは遠いが、たどり着けないこともないだろう。しかしそれは私が生身だったらの話だ。ハンググライダーと体が繋がった状態で、この奔流のなかをまともに動けるわけが無い。ハンググライダーにかかる水圧に勝てない。無抵抗に流されるハンググライダーと一緒に、私も流されてしまう。
ひとつ、いい方法がある。ハンググライダーと私とをつないでいるハーネスを、ナイフで断ち切ることだ。手はうごくからナイフは取り出せるだろうし、そうすれば自分の身だけで動ける。しかし、それだとハーネスを切ったときの衝撃でたぶんハンググライダーは下流に流されていってしまう。あれがなければ私は飛べない。ディエゴと一緒に、マンハッタンまでたどり着けない。それは、ダメだ。タブー。絶対ナシ。
だから。
そっと、ハーネスに手を沿わせる。できるだろうか。でも、やるしかない。他に方法も無い。
下流を観察すると、川の流れがある地点から見えなくなっている。その地点の付近に、『ガケ注意』という看板が立っている。あそこには滝がある。崖の上から下まで、水が落下するのだ。
そこには高低差がある。
助走の代わりに、この川の流れがある。
それがあれば、……飛べるんじゃあないか。
緊張する。でも、迷っている暇はない。ハンググライダーがもう限界だ。行こう。
ハーネスをわざと揺らす。ハンググライダーの翼がそれに連動して動き、岩の間からするりと翼がすべる。
水の流れ。流されていくのを感じる。私はハンググライダーを目指して泳ぐ。ハーネスをつたって、ハンググライダーを、そのコントロールバーを、握らなければ。
手を伸ばす。
恐竜が噛み付いたままの右手が、バーに届いた。
同時に、宙に投げ出される感覚。落下。
左腕も、バーに。
体勢がなってない。身体に力は入らない。でも翼が地面に対して平行に向けばいい。腕に力を入れる。恐竜が噛んでいるところから血が吹き出るのが見えた。
浮遊感。
バーに身体を引き寄せる。一瞬でいい、浮け! あわよくば、飛べ!
水面が近づいてくる。大丈夫だ、滑空できている。水しぶきがかかる。翼の向きを調整する。水面につくかどうかのところで、わずかに上昇する。そのままゆるやかに飛び、陸のある場所まで飛んでいく。
着陸はしない。どうやらここは山の中らしいから。
地面に足がつく。走る。そのスピードを生かしてまた飛び立とう。
がくがくしたままの膝で、感覚の無い足で、地面を踏み、蹴る。
再び崖になっている箇所があった。そこを利用して離陸する。
空から光が漏れている。
気持ちのいい風が吹いている。
すぐそこに、目指していた街があった。
カンザス・シティ。
私はたどりついたのだ。
その瞬間を逃して、私が雨を克服するタイミングは無かっただろうと思う。ずっと自分のなかにあるのがどういうものなのかもわからずに、雨の日に怯えたまま、一生を過ごしていたに違いない。きっかけをくれたのはディエゴだった。彼は間違いなく私にいろんなものを与えてくれていた。そのときの私は、どうにもそれに、気が付いていないようなところがあったかもしれない。わかっていたからって、どうしたってわけじゃあないけれどな。
ただ、今でも時々、旅の途中、雨の中商店街を巡ってみたりしながら。
ほんとに時々、ちょっとだけ、たまに……、思うことが、あるんだ。
この体が動かなくなってもいいから、貴方に会いたい、と。
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