▼ 09
やり遂げなければいけないこと。
このレースに最後までついていき、大金を手にするために。
それから、ディエゴを信じれるようになるために。
彼の秘密を知るために。
飛ばなくてはいけない。
空の具合はよく見えない。陽が落ちてからずいぶん経っている。雨が降らないうちにと思ってかなり進んだが、カンザス・シティはまだ遠い。風向きが変わり始めている。強く、そして下から上に押し上げるように、吹いている。髪の毛が巻き上げられて、クラゲの足みたいにふわふわ浮いている。これ、上昇気流だ……。とりあえず、それに乗ってハンググライダーも上昇させる。もうすぐここらへんに雨雲ができる。そして雨が降る……。そして結構ひどい雨になる。通り雨なんかではなく……。辺りの風景はまだぼんやりと見えているが、こんな大草原の真ん中で、月明かりもないなか、どこかに飛ぶなんてできそうもない……。けど、そうしないと追いつけない。闇の中でもまっすぐ進むには? いや、そうだ……風の方向が一定ならいいんだ。それを基準にして進んでいければいい。間違ったら鞄のなかの恐竜に道でも聞くか。
ぽつり、と。
最初の一滴は唐突で、しかしそれから、一気に雨が降り始めた。
筋肉が硬直する。ハンググライダーの翼が雨よけになるかと思ったけれど、だめだ、風が強くなってきた。横から殴りつけるようにして雨があたる。
怖い。
言葉にしてみると、それはなんてことない単純な感情だ。
怖い。
ディエゴが教えてくれた、これは得体の知れないものなんかじゃあなく、ただの恐怖なんだって。
怖い。
そうとわかったら、あとは簡単なんだ。人間は……恐怖を……乗り越える生き物なんだから。
怖い……。体がうごかなくなる。いつものように。
嵐がくるんだ。
あのときみたいに。なにもかもさらっていくんだ。
そう考えたら、余計に、ああ、うん、怖い、な。
ほんと、恐ろしい。
だけど、怖いだけだろ? この雨が。
雨の中で、私は死なない。
あの嵐の日、私はひとり生き残った。
だったら今日も、生き残る。飛ぶんだ。そして、たどり着く。
やらなくちゃあいけない。私の中にあるあの嵐の日、それを払拭するためにも。
ハンググライダーのバーを握り締めるための力は、出てこない。麻痺してる。今私はハーネスだけでグライダーと繋がっている。
この麻痺を解くには?
「ディエゴ、聞こえているかい」
鞄の中の恐竜はおとなしい。無理に動いて鞄から出てしまったら、地面に真っ逆さまだからな。
力ない手をなんとか動かして、鞄を開ける。それだけの動作に、ずいぶん時間がかかる。操作されないハンググライダーは、風にあおられてどっかに流されていく。このままじゃあ落ちる。カンザスじゃあないどこかに。それではいけないんだ。
「この恐竜は貴方の支配下にあるよね。この言葉も聞こえているでしょう。恐竜に命令をしてほしいんだ。簡単なことだよ。まず私の体をつたって、私の左腕のところまでおいで」
ぶらりと垂れるだけの左腕に、恐竜がしがみつく。飛ばされないように、抱きつくような格好になっている。
「ありがとう」
一人では、きっと駄目だった。
でも貴方がいるから、私はこの雨に、勝てるよ。
「次は恐竜にこう命令して。私の左腕、どこでもいい、噛み付け。振り落とされないように、しっかり歯を食い込ませて、だ」
恐竜は、動かない。
何故迷う? ディエゴ。私が怪我をしてくると貴方はいつも不機嫌だ。なんでだろうって思っていたけど、私も貴方が怪我をしてきたら、ちょっと嫌かもな。でも、さ、これは怪我じゃあないよ。必要なことなんだ。
「痛みは、感情を薄れさせる。最も手っ取り早い、この雨を切り抜けるための私の作戦だ。すでにしっかり包帯を巻いてあるし。出血する前から止血済みっていう状態だ。どこでもいいよ。恐竜に命令してくれ。噛み付け。そのままカンザスまで行く」
目をやると、恐竜はゆっくりと、大きな口を開いている。
ワニみたいに、ぱっかりと、口をあけて。
ひじの下あたりに、その歯がするどく、食い込むのがわかった。
ありがとう、ディエゴ。貴方なんていうかやっぱり、流石だよ。左手は問題なく動く。神経や筋肉には傷がつかないように手加減して噛んでくれている。それでも風を切る中振り落とされずに私の腕には喰らいついている。最高の力加減ってわけだ。
バーを握る。左手、右手。腕と腹筋に力をいれて、雨風のなか、体勢を立て直す。上昇気流を使って上に昇り、カンザス・シティのある方向に向き直る。顔に雨がぶちあたる。髪の毛もべったりと張り付く。目を開けているのがつらいくらいの雨だ。冷たくて、さみしくて、間違いなくあの日、私や私の両親を、船ごとさらったあの雨と、同じ。
嵐が来るって、わかってたんだな、ディエゴには。
だから、私に一人でカンザスに向かわせた。もちろん遺体を得るためってのが目的だろうけど……。
それでも。
私を勝たせてくれた。この雨に。
恐怖は、いつの間にか消えている。
だんだんあたりが暗闇に飲まれていく。飛ぼう。このまま、カンザスまで。
バーを握り、呼吸を整えたとき。
突然。
いや、人間には観測できないだけで自然には法則性ってのがあって、決して突然なんかじゃあなかった。
風向きは、変わるべくして変わったのだ。
突風だった。左側から、猛烈な横風。ハンググライダーが空中分解しなかったのが奇跡のような、暴風。
翼は横倒しになり、その衝撃に私はバーから手を離してしまう。
ハンググライダーは風に乗り切らず、地面に向かって落下していく。ぐるぐると回るように。腰につないだハーネスが引っ張られて痛い。
落下。
私は闇の中、どこかもわからぬ場所に、翼と共に落ちていく。
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