楽園偏愛録 | ナノ


▼ 07

 森の中に入って、ハンググライダーごと自分の身を隠す。レース参加者が果樹園を横切るならここから果樹園のなかに入るだろう、という場所にあたりをつけて、双眼鏡で観察を続けた。何人かの参加者たちが果樹園の中に入っていくのが見えた。見知った顔が多い。このあたりが現在のトップ集団ってところだろう。ディエゴから聞いた話だとジョニィ・ジャイロの二人はスタンド能力、およびそれに匹敵する技術を持っている。彼らならリンゴォを退けることもできるか……。ホット・パンツの実力は未知数だ。前のステージで余裕の一位を飾っているところをみると、本来かなりの実力者……。いや、隠していた、という見解でいいのか? レースのどこかでディエゴのようにスタンド能力に目覚め、その能力のおかげでいきなり順位が上がったのかもしれない。彼もスタンド使いだと仮定すると、彼もまたリンゴォに対立できないこともない。ガウチョも見かけたが彼は……駄目かもしれないな……。南無アーメン。
 鞄のなかから勝手に出てきた旧ウサギ今恐竜が、さっきからちょこちょこあたりを気にしている。私の代わりに周囲の警戒をしてくれているようにも見えた。こいつがいるおかげでディエゴに私の居場所は伝わっているはず……。ここで待っていれば会えると思うんだけど……。
  しばらく双眼鏡を覗いていたが、他の選手が果樹園に入っていく姿は見えない。ジャイロたちはそろそろ果樹園で迷い果てて、リンゴォを訪ねるころか……。どう、なるんだろうな。私はどっちの味方でもないから、気にするところではないのだろうけど……。リンゴォは政府の刺客のような感じもしたけれど、それよりも自分の信念を貫くことを重要としている。政府の刺客、遺体を集めているジャイロとジョニィ。どっちもディエゴと対立する立場にある。ま、今のところどっちが勝ってもこちらが有利ってことはないし、静観かな……。
 風の向きが変わっていくのがわかった。こういうときは、天気も変わる……。木々の葉の隙間から空を見上げる。怪しい雲色だった。また、雨……。近くの細い木に背中を預ける。深呼吸をする。ああ、くそ、まだ降ってないだろうが……。降ってくるとわかったとたんこれだ、空なんか見るんじゃあなかった……。
 ずん、と体の重さが増す気がする。
 なんだろう……ずっと考えてきた。頭の中を支配する、ひとつの感情。これの名前はなんていうんだ……。これがくると、私はなんにもできなくなる……。深い海の底、光の見えない場所、重たいからだは動かない……。
 これより強い感情を、私は知らない。
 これに勝てる感情がもしあるなら……私は雨の中も動けるんだろうか。
 手から双眼鏡が滑り落ちていく。落下したそれを察知して、恐竜が近くに戻ってくる。
 ディエゴ。
 私、約束したのに。ついていくって。追いついてみせるって……。
 なのに、これじゃあな……。情けない……。

 ぽつり、足に一滴、雨が落ちる。
 雨が降り始めた。
 私は動けない。








 雨が降り始めてから、どれくらい経っただろうか。
 がさり、と草を踏む音がして、私はそれが大型の生き物の足音とわかった。しかし、動かない私を見上げている恐竜は、その音に反応を見せない。
 この恐竜が警戒しない相手なんて。
 ……ディエゴ。ああ、呼びたいのに、口も回らない。雨の音がしとしと、そこらに響いている。自分の呼吸の音が聞こえない。生きている気がしない。

「キト、君はもうちょっとタフな人間だと思っていたが」

 さっと、私の目の前にディエゴが顔をだす。木を背もたれにして座っている状態の私に合わせて、彼はかがんで、こちらの様子を覗き込む。

「……重症か?」
「……っ、」
「動けないなんて話にならない。そんなんじゃあマンハッタンにたどり着けないぜ。金もくれてやれない」
「……、」
「……まったく」

 ディエゴはこちらに手を伸ばす。手袋をしていない。肌が直接頬に触れる。体温が伝わってくる。つめたい雨の世界の中、唯一の温度。
 ……恐竜になっちゃったからさ、冷たいものだと思ってた、貴方の手。
 ……そうでもないんだな。

「……ごめん」
「口がまわるようになったか」
「……ほんとだ……なんで」
「死体みたいだぜ、ほんと」

 今度は腕を掴まれる。また、私はそこで温度を得る。彼から伝わる体温が、心地よい。さっきまで大波のように私を支配しきっていた感情が、うすれるのを感じた。

「指が動いたな。これ、君の全身くまなく触っていかなくちゃあいけないのか?」
「そ……それはちょっと」
「どういうわけかは知らないが、雨の日はいつもこうなのか? チビの恐竜の目がずっと見ていたが、君は雨が降るといつもこうなる」
「うん……。昔から。なんでかわかんないけど……。あの、でも、ついていくから、ちゃんと……」
「こんなんになるのにか? このレースをナメているのか」
「でも……」

 腕を強く引っ張られる。無理矢理立ちあげさせられて、力の入らない足がぶらついたまま、私はそこで初めてディエゴと目を合わせた。

「君は雨がトラウマか。こんな病気はないと思うし、精神的なものが原因だろう。嵐の日に船が沈んで、砂浜で目が覚めたとかだったか?」
「……そう、なのかな……。私自身、ほとんど覚えていないのに」
「雨が降ると、どう思うんだ」
「わからない……。心臓がぎゅって……搾られるみたいになって……。体が動かせなくなる」
「怖いのか」
「怖い? ……雨が?」
「君に恐怖という感情がきちんとあるようでこちらは安心したが」
「馬鹿な……そんなわけ、ていうかディエゴ、手、痛い」
「一人で立てないくせに偉そうに訴えるな。足に力をいれろ。少しずつでいい」
「う……ん……」

 ディエゴに支えてもらいながら、私は両足を地面につける。膝ががくがくしているけど、彼の手につかまったまま、どうにかきちんと地面に立つ。

「君は雨に勝たないといけない」
「……どういう、意味?」
「雨に負けているから体が動かないんだろう。雨が怖くて、屈しているから。それをどうにかせずに、俺についてこれるなんて思うな。雨の中であろうと君は飛べ。……今にとは言わない。しかしすぐに、だ。キト、」

 ああ、あの言葉がくる、と、わかった。

「できるか?」

 それ、卑怯な言葉じゃあないかな。貴方にそれ言われたら、私は、こう答えるしかない。

「できるよ」

 腕に力を入れる。彼の腕を掴みかえす。今、私はどんな表情をしているだろう。死体みたいだとディエゴは言った。死者は笑えるか? 私は笑えているか?
 どっちでもいい。

 この胸の中の感情が恐怖だというなら、私は雨よりも、貴方に「できない」と返すことのほうが、怖いんだから。



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