楽園偏愛録 | ナノ


▼ 08


 その日もまたいつもと変わらぬ朝だった。ただし私よりもディエゴのほうが早く起床していた。彼は地平線を眺めているようだった。
 空と雲の境界がわかるくらいに陽が昇ってきたとき、ディエゴはひとつの薄い雲の塊を指差して「あれが見えるか?」と言った。ひつの雲というか、ひとつしかない雲だった。真っ青な天井に一点、染みのように浮かぶ白。

「見える」

 いつものように、私は応える。私がなにか、できる、とか、可能だ、とか応えるたび、ディエゴは満足げに頷いて、そのときにほんのちょっとだけ笑う。自分では気づいていないのじゃないかなと思う。そしてそれを指摘したら、もう笑わなくなってしまうのではないかな、とも。だから私は無言で視線だけやって、彼の次の言葉を待つ。それだけする。

「地図には載っていないが、あそこに水がある。どうやら山の向こうにあるらしいから、俺はわざわざ寄ったりしないが、君ならいけるだろう。喉がかわいてしょうがなくなったときのために覚えておけ」
「なんで水があるってわかるの?」
「砂漠には水分がないから雲なんてできない。雲があるということは水分があるということだ。方角を記憶しておけ」
「ほーう、なるほど。うん、わかった」
「セカンド・ステージが始まってから8日が経過している、そろそろ中継地点の街が見えてくるだろう。君は見つけ次第街に下りていろ。君は選手じゃあないが、ええと、なんだったっけ?」
「村おこしのためにレースに出場している青年を応援しにきた記者、っていう設定」
「それで通じればいいが、まぁ無下にはされないだろう。休んでいろ。おそらく選手である俺には宿泊施設があてがわれるだろうから……君はどうする?」
「到着したら決めるさ。金はなるべく物資調達に使いたい。野宿もアリって考えだ」
「……そうか。まぁ、俺がついたら会いに行く。勝手にうろつくなよ」

 私は風を見ている。目にはもちろん見えない。けれどそれは髪をさらい、頬を撫でている。小石を転がし、砂を舞い上げる。自然のなかのすべてが風を受け入れ、生きている。そのなかに私もいる。なら、見えないとは思わない。そこにあるのだから。

 ディエゴから貸してもらっているロープを手に、今日の高台を探す。ただ高いだけの場所でなくていい。風のなかに飛び込みやすいところを探せばいいのだ。何度も飛ぶうちに慣れてきた。未だに朝起きたとき、腕が痛いんだけどね……筋肉痛っていうのかな、これ。
 丁度良さそうな岩場を見つけて、手をかける。ロープの一端で畳んであるハンググライダーを固定し、もう一端はベルトにでも巻いておく。充分な長さがあるので、私は負担のかからないまま岩場の上まで登ることができる。
 結局、ディエゴのグローブは借りっぱなしだった。いや、一回借りて、次の日にはもう返したんだけど、その日また岩場を登ったりするときに手をすりむいて、ディエゴは本当に「いいかげんにしろ」と言ったのだった。宣言どおりすぎておかしくて若干笑ってしまったので軽く蹴られた。人間のくせに足癖が悪い。

 ……『信じる』という行為は……『自殺』だと思っていた。
 信頼は金で買えるものではない。そもそも本当に買えたかどうかもわからないだろう。目に見えないものっていうのは厄介だ……、特に人間の感情というものは、どう足掻いても金ではどうしようもない。金で動かせないものは、私にとって信用するに値しない。だから信じるということは、自分を追い込むということだ。

 べつにディエゴのことを信頼しているとかそういうことではなく。そうディエゴ・ブランドーという人間ではなく、彼の実力を私は信じているのだ。たぶん。彼の言うことは、正しい。別に彼が善悪や倫理について説いたとかじゃなく、単に彼は私にいつも指標をくれるのだ。
 次にどうしたらいいか。
 こういう状況に陥ったときはどう対処するのがいいのか。
 対策はどうとるのか。
 それがなんていうか、私にはとても――有難くて。確実で、……信じられる。
 彼がどうしてそんなことをいちいち教えてくれるのか、最初はわからなかったし、彼と言い合いになったときもきちんと飲み込めたわけではなかった。
 思うに……なんというか、たぶん、元々そういう人間なのだ。
 聞いたら教えてくれる。
 そういう生き方が身についている。誰かを教育する立場にあったのか? 下にきょうだいでもいるのか? しかし面倒見がいいというのとは違う気がする。『命令し慣れている』とでもいえばいいのか……。とにかく人を操るのが上手い。うっかり巻かれないようにしなければと、いつも思う。

 砂漠に吹く風はご機嫌だった。風景がどんどん横にすべっていく。岩山に沿って風が上に吹いている場所を探して、上昇した。
 ディエゴの言っていた『水のある場所』に行ってみようか。
 雲はもう陽射しで消えてしまっているけれど、言われたとおり方角は記憶してきた。だいたいの位置はわかる。この高さから滑空していけばあの岩山も越えられる。その向こうに水場があるとディエゴは言った。
『信じてみたい』……それも少し違う。私は、その先にあるものが見てみたいだけだ。そう、単に興味があるのだ。彼の示すものの先に。
 ハンググライダーのバーを、握り締める。高く、高く、昇っていく。
 見てみたいものがあるのだ。

 下にはおりてしまわないほうがいいだろうと思って、岩山の頂上付近にスペースをみつけて着陸する。一度おりてしまったらまた登らなくてはいけないし……、それになにより――――ここからの眺めは、とてもきれいだ。
 私は眼下にオアシスをとらえていた、驚いたことに、緑色の植物が生えているようだ。サボテンではない……苔のようなものだろうか? いや、もっと別のなにかだ。枯れかけのヒマワリみたいな……でも力強く生きている。そういった植物にかこまれて、澄んだ水溜りが太陽の光をはねかえして輝いていた。水は深いらしく、うっすらと青みがかって見える。

――ああ、いい風が吹いてる……。これに乗らなきゃ……って、そう思うのに……。……まだもう少しだけ、見ていたい眺めだ……。
 岩山の上から、双眼鏡を使ってディエゴを探す。……見当たらないか。じゃあ、ここで私がちょっとくらい休憩していっても、バレないよね……?
 私はハンググライダーを畳まず日よけにして、その場に腰を下ろした。





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