楽園偏愛録 | ナノ


▼ 04


 私には海を越えた記憶がある。遠い、遠い、記憶だ。それはただの夢かもしれない。同じ経験をした人は私以外にはもういない。その記憶が真実だと証明してくれるものはなにもない。
 海を越える前、私は両親と共に住んでいた。彼らの顔は思い出せないが、共に生活し、笑いあった記憶が残っている。両親は同じ種類のピアスを左右にそれぞれ片方だけつけていた。この地域での夫婦の証なのだと母が言っていた。
 私たちの使う食器や家具には、特殊な模様が刻まされていた。指でなぞったときのでこぼこした感触がおもしろくて、私はそれらに触れてばかりいた。そうしているとまた母が、このあたりの家の建て方や間取りは、他の地域にはないものなのよ、と教えてくれる。私はそれを『文明』と教わった。誇っていなさいと母は言った。これらは私たちしか持っていないものなの。
 『特別なもの』と知ってから、私は熱心に皿やコップについている模様を観察した。そうしているのは楽しかった。将来的に私もこの『特別なもの』を生み出す側になってみたかった。ずっとずっと眺めていた。だから両親がなにかに怯えているのを私は知らなかった。
 ある日、目が覚めると、母と父が出かけようといって私に身支度をさせた。窓の外を見るとまだ暗くて、太陽が昇るのよりずっと前だとわかった。なるべく静かに、と母は言った。家の外に出てみると、私たち家族以外の住人も同じように荷物をかかえていたり、あるいはまだ冬でもないのに厚着をしたりしていた。母と父が無言で私の手を引いた。私は母から、いらないものは持ってこないようにと言われていた。いらないものとはなんだろう? 必要なものとそうでないものを見分けるのにはどうしたらいいんだろう。私は持って行きたいもの、宝の山の前で呆然としていた。結局なにもわからないまま、母に言われたものだけを持って歩いた。山のなかに入って、しばらく歩いていくと、だんだん空が白んできて、夜があけた。山をこえるころには陽が高く昇っていた。遠くの空から黒い煙があがっているのが見えて、あれはなんなのかと母に聞くと、無言で抱きしめられ、それからすすり泣く声がした。母は結局なにも答えなかったのだが、私はそれで自分の村が消えてしまったことをなんとなく感じ取った。村のみんなは足を早め、やがて一行は海についた。村の漁師が使っている港ならしく、船が何艘か停めてあった。私たち家族は小さな船に、身をよせあって乗り込んだ。そのほかにも何人か乗れるだけ乗り込んで、私たちは陸を離れた。

 それからのことは、よく覚えていない。真っ青だった空がどす黒く濁っていく様子と、たくさんの人の悲鳴だけ、脳にこびりついている。私は一人、どこかの砂浜に居た。仰向けに寝転んだ状態で、口の中には砂が入っていて、ざりざりした感触が気持ち悪かった。体が重たかった。なんとか体勢を変えようとして、うつ伏せになると、喉の奥からしょっぱい水が溢れて外に出た。ふと、てのひらの中に違和感を感じで、開いてみると、そこにはピアスがふたつあった。よほど強い力で握り締められていたのか、手にはピアスの形の痣ができていた。周りには見たことの無い植物と、見覚えのある村の人間の体、船だったであろう木片が落ちていた。誰も息をしていなかった。見える範囲すべての海岸線を歩き回っても、両親の姿は見当たらなかった。

「人間の『価値』というのは、生まれたときすでに決定していると言ってもいい。その決定を覆せるのは、ほんの一握りの人間だけだ。人生どうなるかわからないなんてハッタリで、凡人には凡人の、貴族には貴族の人生が用意されている……。それが今の社会だ。あんたはそういうのを覆してきた側の人間かな……。お貴族様にしてはこわい目をしてると思うんだよね」
「君はどうなんだ?」
「もちろん、そんな力はないさ。海岸でひとりぼっちになった後、とにかく人里を探して歩き回って、もうだめだってところでやっと農場みたいなところにたどり着き、そこでしばらく働かせてもらっていたんだ。そこで働いて働いてお金を貯めて、その金を資金に商売を始めた。半分詐欺みたいなこともしてきた。そうやっていくうちに色々な人間がいることを知ったんだ。私にはできないと思った。自分の運命を覆すことはできないと。セコイ手をつかって儲ける商人であることしかできないと思った。私の『価値』はそうしていることにしかない。『転落』はありうる、しかし『逆転』はない……。他の大勢の人間と同じだ。なんにも変わらない」

 こういうとき……。こういう話をしたとき、だ。たったこれだけの話なのに、人間的良心に基づいて同情のまなざしを送ってくる連中がいる。私はそれを好まない。彼らがなにか悪いことをしているってわけじゃあないが、それじゃあ私の人生はもうどうしようもなく意味の無いもので、私自身の存在も同時に意味の無いものだと……言われているような気がしてしまうから。それを屈辱と感じてしまうんだ。お前らなんかに同情されるほど私の人生はクソったれなもんじゃないんだって、言い返したくなってしまう。素直に思いやりとして受け取ればいいのに……。それが嫌なんだ。
 ディエゴ・ブランドーはそれをしない。同情するより先に鼻で笑ってくるだろうと思っていた。そうされたほうがこちらも気が楽だと思ったから、ごまかさずに話している。

「そうか」

 ……。そうかって、それだけ? わざわざ質問してきたくせに。
 ……でも、じゃあ、『いい』のか……? 私の人生も、生き方も、なんにも間違ってないのか……? 私の人生は決して『かわいそう』なんかじゃあない……。
……『これからどうにでもなる』……。






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