楽園偏愛録 | ナノ


▼ 04


 でも……。
 私には、その『帰る』という選択肢を……躊躇う理由も……ある。
 とにかく、金が欲しい。こんなビーチでの突発的な稼ぎじゃあない……莫大な金! 私がどこで、なにをしていようと、文句を言われないための、金。
 見つけなくちゃあいけないんだ。
 自分の『価値』を知るために。
 彼の示している金は魅力的だ。そして私の方になんのデメリットもない……ように思える。この私の目からもちゃちなものにしか見えない仮面が、実際のところもそうであろうことも理解できた。彼の目的は全く不明だが、パフォーマンス……つまりただの気まぐれだってことも、まぁ、頷いてやってもいいかもしれない。

「レースで優勝する気なんだな? できなかった場合のことを話してもいいか?」
「無駄たと思うが? このレースが終了した時点で、君は俺から金を受け取る権利を得る。これで充分だろう」
「……ここに紙とペンがある」
「ああ……、なんなら、そうだな、もし優勝したら賞金をなにに使いますか、なんてことを聞いてくる記者もいるだろうし、そいつらに向かって君との『契約』のことを細かく話してやってもいい。こちらのほうが公的な記録に残るのではないか?」
「そ、……そこまでしなくていい。面倒なことになりそうだ」
「じゃあ、確認していいか? SBRレースが終了した後、マンハッタンで俺はもう一度君と会う。賞金がどの時点で、どういう形で支払われるかわからないが、とにかくその後君に現金で渡せるまで一緒に行動してもらう」
「わかった。仮面は……ここで渡しておく。後払いという形になるわけだ。他には?」
「ひとつ条件がある。俺はいつまでもゴール地点であるマンハッタンに留まって君を待っていたりするつもりはない。俺がゴールするよりも先にそっちについていて欲しい。鉄道なんかを使えばすぐだろう?」
「……そうだな、そのくらいの金なら、なんとかなるだろう。収入をパーにしそうだけど……。いい、条件を飲む」
「今言ったことをすべてここに書いたからな。確認したか? あんたもサインをしてくれ」

 ディエゴ・ブランドー

 偽名なんかは使わない、か。本当にこんな契約を成立させるつもりなのか? まだ信じられない……。
 ペンをひったくって、自分もサインをする。

 キト・フライメア
 契約、成立……。
 これで、逃げられなくなった。彼はもちろんだが、私も……。
 まだ、帰るわけにはいかなくなった。

「よし、じゃあその契約書はあんたが持っていろよ」
「……仮面のほうは、勝手にとっていってくれ。ピアスもいるかい?」
「それはちょっと趣味じゃあないんでね……。そっちなら気になるけど」
「そっち?」
「君がつけてる方さ。それは売り物じゃあないのかい」
 
 ああ、と思って自分の耳元に手をやる。ちょっと変わった形をしたピアスだ。宝石のついた、なるほど御貴族様のお眼鏡に適いそうな。

「悪いけど」
「そ、じゃあ、本題に入らせてもらうぜ」
「まだあるの?!」
「水をくれ。馬に飲ませたい。レース参加者には配分されるはずなんだが、この人ごみだ、係りの人間もてこずっていて遅れているらしい」
「あ、ああ、って、ちょっと待て。もしかして『そういう』契約だったのか? あんたがレースで優勝するためにサポートをしろと?」
「? どういうことだ」
「……違うならいい。6リットルくらいでいいか? 片手でひとつの桶が限界だろうから、ひとつ持っていってやる」
「それはどうも。いくらになる?」
「ふざけてんのか。あんな滅茶苦茶な契約をさせられた後で、あんたからこれ以上金を要求しようなんて思わない。金額が金額だったから私は『乗った』けど、もう二度とあんたと金のやりとりはしたくない。本心だ」
「ふぅん……。まぁいいけど、水を運んでくれるって言うなら急いでくれ。契約書は? ちゃんと大事にとっておけよ」
「今ポケットに入れた! ほら、水だ! あんたの馬はどこにいる」
「なにを怒ってるんだ?」
「怒ってないよ!」
「……そうか?」

 私は……、私はこの男のために祈らなくてはいけないのか? 契約が成立したということは、私がそれを望んだということだが……。どうにも腹が立つ。私の言葉なんか歯牙にもかけていないみたいで……。無意識のことなのか、それとも隠しているつもりなのか、明らかに奴はこちらを見下しているし……。見下すような人間に、どうしてあんな契約を持ちかけた? それだ、それがわからない。見下しているのはわけるけど、何故かこっちの言葉に反発したりはしてこない……それは何故? なにを目的としている? 本当にこいつが見ているのはレース『だけ』なのか?
 人ごみを器用に分けて、男はすいすい歩いていく。両手に水の入った桶を持っていても、なんの苦にもしていないみたいだ。ああ、その後ろでよたよた歩いている私の事なんか、振り向いて確認したりも、しやしない!


 ……こうして、私の旅路が『ずれる』ことになった。
 目的地は、サンディエゴビーチから、マンハッタンへ……。
 そこへたどり着くまで、私はなにがなんでも歩を進めなきゃあならないんだ。


 

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