学生を名乗り続けてもう八年目、遂に来年の春で貧乏生活ともおさらばだ。研究に夢中になりすぎる性のせいか、バイトをしょっちゅうすっぽかしてはクビになる、を繰り返し、最近ではもうバイトをするのも諦めた。すなわち、親の脛をかじって生きているのだけれど、親の懐の深さだってたかがしれている。お父さんお母さん、院なんて行ってごめんなさい。まあそんなわけで、私は常に貧乏である。
今朝起きて顔を洗おうと蛇口を捻ったら、水が出なかった。どうやら水道料金を払い忘れて、止められたらしい。人間は食料がなくても二週間は生きられるが、水がないと三日で死ぬ。つまり、これは我が生命の危機である。私は上述の通り貧乏なので、すぐ払えるようなお金なんて持っているわけがない。ところで、私には金持ちの幼馴染みがいる。ここから導き出される結論はただひとつ。 さてと、ちょっくらたかりにいきますか。 見上げてもてっぺんが見えないんじゃないかと思うほどの超高層タワーマンション、その真ん中より少し上に奴の部屋はある。幼稚園から高校までずうっと時間を共有していたというのに、かたや日本を代表するプロサッカープレーヤー、かたやその辺の貧乏学生。収入同様、住んでいる所も本当の意味で天と地である(ちなみに、私の城は築二十五年おんぼろアパートの二階だ)。 インターフォンに部屋番号を入力、呼び出しボタンを押す。が、繋がらない。今日は練習かな。しかし、私は合鍵を持っているのでなんら問題ない(玄関にあられもなく放置されていたので、不憫に思って貰ってあげたのだ)。あれ、どこにやったっけな…… 「はい」 あれ? どうやら通じたらしい。が、スピーカーから聞こえてきた声は、やる気のない男の声ではなく、しゃんとした女の声だった。元気があるないはともかく、性別が変わるなんてありえない、性転換モノの十八禁小説じゃあるまいし。郵便ポストとインターフォンの表示を確認するけれど、部屋番号を間違った……わけでもない。ということは、つまり。 「あの、持田の友人の霜山といいますが」 「ああ、今外出しております」 まじかよ、これはめんどくさくなりそうだ……でも、帰っても死ぬだけだし。 「……とりあえず、お邪魔していいですか」 「はい」 オートロックが解除されて、自動ドアが開く。やたらとボタンの多いエレベーターの中、考える時間もやたらと長い。 まあ普通に考えて、インターフォンにでた人はあいつの彼女さんだろう。ここで予想される今後の展開は「あんた彼の何なのよ」である。まあ昔馴染み以外の何者でもないんだけど、そういっても彼女さんが納得してくれたことは未だかつてない。何度たかりに行って、彼女さんに出くわして、大変な目に遭ったろうか。私がアポなしで行くのが悪い?ごもっとも。しかし、彼(のお金)が必要になる場面は、いつだって突然やってくるのだ。仕方ないではないか。私に言わせれば、それより、彼を訪ねる度に出てくる女が違うのをなんとかしてほしい。虚しい結果にしか繋がらないい説明を何度もするのももう疲れてきた。そろそろ誰か一人に決めてほしい。……私がいる限り、無理かなあ…… というのも、大抵、彼らが別れる原因は私にあるのだ。 持田と私の間にあるのは男と女のそれではなく、友情、である。それは疑いようなんてないし、その辺の薄っぺらい恋愛なんかよりはよっぽど強く繋がっている。でも、どうしたって彼は男で私は女で、それ以上のものが何もなくたって、彼と男女の関係を結んでいる人にとって、私はさぞかし許しがたい存在であろう。私にとっても、彼女の存在は気持ちのいいものではない。 ところで、男女間の友情は有り得るか否か、と言う命題は恋愛の話をする際によく俎上にのるけれど、私は迷わずに「ある」と答える。現実に、有り得ているからだ。ただし、それが混じり気のない、純粋な友情でなりたつかどうかといえば答えはノーだ。彼は私を柚香と呼ぶけれど、私は彼を持田と呼ぶ。幼い頃は名前で呼んでいたはずなのに、そう呼ぶようになったのはいつ頃だったか。 彼は、私が幼いころから今まで培ってきた友情や、ずっと一緒にいたという家族愛に似た情や、制服を着るようになってからなんとなく意識してしまった恋愛の情を全部ごちゃまぜにしていることに気づいている。だから、私が会った瞬間に「敵わない」と思うような女の人ばかりを隣に置く。多分、彼はその人を本当に愛しているわけではなくて、私の気持ちを否定するために、そうしているのだ。その証拠に、彼は私を名前で呼ぶし、いきなり彼の元を訪れることを拒否しない。そうすることで、私のちっぽけな自尊心を満たしてくれている。友情は恋に勝るのだと。 そうは言ってもやっぱり彼の隣に女の人がいるのは嫌で、こうしていきなり押し掛けては誤解させて二人が別れるように仕向けるのだ。喧嘩上等。たとえ徒労に終わろうと、向こうがかかってくるならこっちだって受けてたってやる。 覚悟を決めて、ドアを開ける。 「はーい」 ……うん?中の上、いや、上の下か? もちろん、女性の容姿に対する評価である。かなり良い、という意味ではあるが、ただし、それは女性一般を指す際の話。持田の彼女、という特定の人への評価としては、控えめに言ってあまり良くない。歴代の彼女たちは上の上の上、みたいな美女ばかりだったのだ。若手実力派と話題の女優だったり、なんとかテレビの女子アナだったり、ファッション誌の人気モデルだったりで、何人目だったかは忘れたけれど、ドアを開けたら目の前に私の大好きなミュージシャンがいたことがあって、その時は思わずサインをお願いした。 ともかく、思い描いていたものとまるで違う雰囲気を持った人が現れたので、私は今ものすごく動揺しています。 「あっ、あの……えっと」 「とりあえず、おあがりください。って、私の言うことではないですけど……すみません、家主が外出しておりまして」 「いえいえ、私もいきなり押し掛けたんだし……お邪魔します」 なんなんだこの空気。一触即発を予想していただけに、こんな、彼氏の部屋に初めて来ましたみたいな。いやそれだったら良かったなあ……違くて。 「ええと……どのようなご用件で?」 まさか水道止まったのでたかりにきましたなんて言えない。 ぐーぎゅるるる…… 「……もうお昼ですし……ご飯にしましょうか」 「そうですね……はは……」 空気読みすぎだ、我が胃袋よ。 「……なわけで、あいつ、お化け屋敷とか無理だよ、多分今も」 「えー、全然想像つかないです。あの持田さんがまさか怖いの苦手なんて」 (情けないことに)彼女さんにご飯を用意してもらったのですが、いやいや大変美味でした。これならあいつの胃袋もがっちり掴んだことだろう。食後のデザートならぬ食後のおしゃべりは、初対面の私達が持つ唯一の共通項である彼が中心になるのは必然的だった。でも、想像していたような殺伐とした空気にはならなくて、むしろ、どうしようすっごく楽しい。好きな人の話するのって、こんなに楽しかったんだなあ。 「今度ホラー映画でも借りて二人で観なよ、絶対面白いから」 「……なんか、この持田さんにしてこの幼なじみあり、って感じですね……」 「なによ、そっちだってなかなか失礼じゃない」 「いやいや、私なんかまだまだですよ、持田さんには敵いません」 「でもあいつと付き合ってられるとか、相当な精神力の持ち主だと思うよ」 「それを言ったら霜山さんのほうが長いじゃないですか」 「こっちは腐れ縁だもん」 「でも、それでもここまで続けられるってすごいです」 「……それ、ほめてる?」 「ほめてますよ、尊敬します」 「なーんかあんまり嬉しくないなあ……」 「話戻しますけど、持田さんって、あんなだけど怖がりっぽいところありますよね」 「あー分かる。案外、臆病だよね」 「ですよね、ガラスの靴無理矢理脱がせたはいいけど、どう扱っていいか分からなくて、ふかふかのクッションにのせて飾ってるだけで、壊れ物さわるみたいな。ガラスの靴も履いて歩けるくらい丈夫なのに」 「なかなかにロマンチックな比喩だねえ」 「それでいっつも馬鹿にされるんですけど」 「あいつだって王様でしょ」 と、ここでドアの開く気配がした。王様のご帰還である。 「ただいま……なんで柚香がいるわけ」 「おかえりー」 「おかえりなさい、あ、持田さん、ホラー苦手って本当ですか?」 「柚香てめえこいつに何吹きこんだんだ」「あることないこと色々と」 「はあお前ぶっ潰されたいの?」 「持田さん、女の子相手にそんなこと言っちゃ駄目ですよ」 「こんなのが女なわけねーじゃん」 「ひど!」 「霜山さん、かわいそう……」 「なんであんたらもうそんな仲良くなってんの、めんどくせえ」 「恋する乙女同盟だもーん」 「です」 「あーはいはい……で、なんで柚香はここにいんの」 「水道止まっちゃった」 「え、大丈夫ですか?!」 「やー今度の研究に必要な本が馬鹿みたいに高くてさー、買ったら水道料金払えなくなっちゃって」 「馬鹿はてめーだ」 「ははっ、貧乏学生は辛いね」 「たかられるこっちが辛えよ」 「持田さんは大学行かないでいきなりプロで稼いでたから分からないでしょうけど、大学生って本当にお金のやりくり大変なんですよ」 「あーもうだからなんでお前が柚香の肩持つわけ……」 「恋する乙女同盟だから」 「です」 「それはもういーから」 ああ、いい子だなあ。今までの彼女達は、持田の肩書きに惹かれていた。もしかしたらちゃんと彼の中身を見ていた人もいたかもしれないけれど、その前に、彼が偉大なサッカー選手でなかったとしたら、寄ってはいかなかっただろう。それに、持田も持田で、今まではステータスで選んでいただろうし。でもきっと、この子はそうじゃない。そうでないと、あんな会話はできない。ガラスの靴の例えだって、彼を良く見ていないと絶対に出てこないし、持田が彼女をそんな風に大切にしている、なによりの証拠だ。 彼女は夕飯の準備でキッチンに向かっている。私も手伝おうと思ったのだけれど、持田に「お前が下手に手を出すと不味くなる」と言われたので、大人しく引き下がる。反論できるほどの料理の腕は持っていない。 「持田」 「なに」 「いい子見つけたね」 「だろ」 「よくあんたなんかと付き合ってくれたよね」 「俺には勿体ねえってたまに思うぜ」 「持田が弱気になるとか、相当じゃん」 「そんくらい好き」 うわあ。他人に向かって臆面もなく好きだと宣言できるだなんて、どれだけ彼女は思われているのだろう。敵わない。でも、何故だか羨ましいとは思わなかった。もう、二人の世界は完成されていて、それはあまりにも美しくて、見ているだけで気持ちが満たされていくような。嫉妬なんて、なんとくだらない。 彼が席を外しているうちに「嫉妬とか、しないんだね」と言ったら「まさか、してますよ」と返ってきた。「サッカーとか、友達とか、どんなに私が頑張っても土俵が違うから勝てるわけないのに、それでも羨ましいと思う自分が醜いので表に出さないだけです」 ならば、私は幼なじみの土俵で闘えばいい。今までの「持田の彼女」へ対する嫉妬は、全て無意味だったのだ。最初から、彼は私に不動の地位を与えてくれていたというのに、わざわざ拒否して無駄骨を折るなど。彼の一番は、別にひとつじゃない。 「持田」 「好きだったよ」 「知ってた」 「やっぱり」 「あいつがいなけりゃ、最終手段で柚香かもなって思ってたんだけどな」 ああくそ、やっぱり彼女なんかいなけりゃよかった。 ‖幼なじみの溶け残り 110612 |