クラスメートであり親友である久義君が、ぽかんと大口を開けて空を見上げていた。バックにはゴミ箱とコンビニを背負い、ヤンキー顔負けの堂々たるヤンキー座りで、流れる雲を目だけで追っている。もし所持しているのなら煙草でも吸っていそうな雰囲気だ。心なしか泣きそうにも見える。 僕は見て見ぬ振りをして通り過ぎようか、一言声をかけて通り過ぎようか、逡巡した後、見て見ぬ振りをして通り過ぎようと決めた。 久義君からさっと視線を逸らし、地面を見詰めながらコンビニの前を通り過ぎる。視界の端に鈍く光る黒色の車体が映った。この車を通り過ぎればコンビニの敷地から出られる。あと少し。あと、少し。 たん、と靴音がした。ぞわりと背筋が寒くなる。バレた。 「りっちゃあああああん!」 盛大に叫びながら背後から物凄いスピードで近付いてくる靴音。僕はほぼ反射的に走り出した。けれど、数歩駆けただけで後ろから肩をがっちりと掴まれる。次の一歩を繰り出していた足を片足に揃え、すうっと息を大きく吸った。ここまできたら観念するしかない。 「何! ていうか、りっちゃん言うなぶっ飛ばすぞ!」 聴き慣れた声に怒鳴りつけながら振り返ると、やはりそこには予想通りの人物が立っていた。久義君。せっかくの美形が台無しな程ぼろぼろ泣いている。気持ち悪い! 「聞いてよー、もうりっちゃんにしかこんな話できないんだからさぁ」 「りっちゃん言うなぶっ飛ばすって言っただろ! 話聞いて欲しいなら僕の話も聞いてくれないかなあ」 苛々しながら言うと、久義君は此方の話を聞いているのか否か、微妙なタイミングで首肯した。視線が空を泳いでいる。訂正、絶対聞いてねえコイツ。 「帰る」 「待って待って!」 久義君に背を向けて歩き出しかけると、慌てて手を掴まれた。仕方なく、もう一度彼と向き合う。 「どうしたの」 うるっと久義君の目に涙が溢れる。今もぼろぼろ泣いているくせに、よく涙が枯れないものだと感心してしまった。 「りっちゃあああん!」 呼ぶなと再三言っているあだ名を叫んだ彼は、僕の首にがばりと抱きつき、子供のように泣き出した。今までの顔に大きな泣き声がプラスされただけだが、耳元で大声をあげられるのは想像以上に苦痛で、僕はあだ名の件も相俟って思わず右手が動いてしまった。がつん、と鈍い音を立てて久義君の脳天にヒットする僕の右手。言い訳をしておくと、明確なる僕の意思ではない。無意識ってやつだ。
久義君はそれからざっと十分程は泣き続け、その間僕は自分より十センチ大きい彼の身体を支えなければならず、更には道行く人々の気まずそうな視線にも耐えなければならなかった。一体何の拷問なんだ。重さのせいで小刻みに震える膝と、見てはならないものを見てしまったようにサッと視線を逸らしていく通行人を、僕は物悲しく眺めていた。久義君は性格と体格が釣り合っていないと常々思っていたが、今日こそ本当に余分な十センチを削って僕の身長に付け足してやりたい衝動に駆られた。 「落ち着いた?」 久義君をコンビニの駐輪場に連れ戻し、彼の自転車に座らせて尋ねる。久義君は小さく頷き、頬に伝う涙を手で拭った。 「ごめんな、いきなり泣き出したりして」 しゅんと落ち込む久義君。 「……別に。迷惑だったらぶっ飛ばしてるよ」 面と向かって「気にしてないよ」なんて言えず、ぶっきらぼうに返してしまう。けれど久義君にはきちんと伝わったのか、ふっと表情が緩んだ。 「話、聞いてくれる?」 無言で頷くと、久義君はぽつぽつと喋りだした。 「俺さ、この間彼女出来たーって滅茶苦茶浮かれてたの、覚えてる?」 覚えているも何も、相手と仲良くなる方法から告白のセリフに至るまで、全部僕が相談に乗っていたんだ。僕がここまで尽くしてやってるのに上手くいかなかったらどうしてやろうか、久義君から上手くいったと報告がくるまで悶々と考えている程だったのに、忘れられるわけがないだろう。 「その子とさ、今日、ていうか、さっきまで、このコンビニにいたんだよ。普通に買い物してたら、突然、私と付き合ってるくせに他に好きな子がいるんじゃない、最低! って怒られて、叩かれた」 久義君は地面に視線を落としたまま、涙の痕が残る頬に手を添えた。言われて見れば、確かに少しだけ赤く腫れているように見える。 「そんで、そのまま出て行っちゃった」 言い終わると、ようやく止まった涙が再びこみ上げてきたらしく、目をうるうるさせながら此方を見た。 「俺、何したのかなあ」 「僕が知るわけないだろ」 途方に暮れたような声音をばっさりと切り捨てる。その場に居なかった僕に分かる事柄ではない。 「久義君は自分が言った言葉、覚えてるの?」 微妙に間抜けた彼が日常会話の一部をしっかり覚えている期待は欠片もしていなかったけれど、僕の予想に反して久義君は自信満々に頷いた。 「暑かったからアイス買いたいなって思って棚見てたら、カップアイス見つけて。あ、これ、りっちゃんが好きなんだよって言った。後、ジュースとパン見ながら、りっちゃん、サイダーとレーズンパンが好きで、買ってくといつも少しだけ嬉しそうに笑うんだよって言った!」 「よし、ぶっ飛ばす」 「何で!?」 久義君は心底理解出来ないと言った様子で戸惑っている。自分の発言の良し悪しさえ分からないのかコイツは。 「まず、りっちゃん言うな。後、僕の嗜好を他人にバラすんじゃない。そして最大の問題、彼女の前で僕の話をする奴があるか!」 恐らく、彼女は僕のあだ名を聞いて女だと判断したに違いない。学校内では何が何でもあだ名で呼ばせないようにしているため、りっちゃんが僕だと気付かなかったのだろう。当然、女の名前だと思った彼女は、自分以外の女のことを楽しそうに話す久義君に浮気を疑い、最低という暴言と共に右手が繰り出されたわけだ。そんな簡単な事が久義君には何故分からない。 「久義君はデリカシー無さ過ぎ! 何も考えてないだろ!」 「そんなことないよ! いつだってりっちゃんの事考えてる!」 「だから何で彼女のこと考えないんだよ。馬鹿か!」 頓珍漢な回答を繰り出す久義君の脳天にチョップをお見舞いし、溜息を吐いた。 久義君は顔がよく、身長も高く、スタイルも抜群。成績も悪くないし運動神経も良い。ただ、それらの良さを差し引いても尚余りある難点があった。性格だ。別段悪いわけではない。むしろ善良と言って良い。けれど、逆に悪くないからこそ誰にも責めることが出来ず、今まで放置されてきた。 久義君は致命的に天然かつ空気が読めなかった。 「折角僕が苦労して出会い作って、仲良くできるようにして、告白の手伝いまでしてあげたのにさあ。そんな下らないことで喧嘩したりしないでよ」 再度溜息を吐きそうになった衝動をやり過ごし、久義君を見上げる。彼は落ち込んだ様子で項垂れていた。目に溢れていた涙は、完全に引いたわけではないけれど新たに増えてはいないようだ。 「ほら、さっさと謝ってやり直して欲しいって頼んでおいで」 久義君の背中をばしんと強く叩く。久義君は衝撃でよろめきながらもふらふらとサドルから立ち上がり、顔を上げた。頬には涙の痕。目もウサギのように充血して真っ赤に染まっている。情けない顔だけれど、どこか決然とした雰囲気があった。 「俺、」 力強く発せられた声音。もうこれで大丈夫だろう。僕は心中で安堵の溜息を吐いた。 その瞬間、とんでもない言葉を聞いた。 「追いかけない。もうこのまま別れる」 「はあ!?」 予想外の言葉に思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。あんまりな回答に言葉が出ない口は、空しくぱくぱくと上下運動をするだけ。僕は十数秒かけて心を落ち着け、久義君を諭すべく口を開いた。 「些細な喧嘩一つで別れるの? そんなこと言ってたら、これから先彼女なんていくら作ってもすぐ別れることになっちゃうよ」 「いいよ」 「よくないだろ。ていうか、僕が協力してやったこと忘れてないよね?」 苛々しながら訊くと、しっかり首肯される。 「なら、何で、」 尚更納得がいかず、更に言い募ろうとしたが、続きは久義君の言葉によって遮られた。 「一緒に居て思った。りっちゃんと帰った方が楽しいなって」 「それは、その、友達と彼女は違うってやつだろ?」 「そうじゃなくて、」 久義君はぴったり当て嵌まる言葉を探しているのか、少しの間困ったような表情で視線を彷徨わせた。僕が辛抱強く続きを待っていると、 「……上手く言えないから、ちょっと来て!」 突然、僕の腕を掴み、コンビニへと向かう。僕はよろめきながら素直に従うと、久義君はアイスコーナーの前でぴたりと止まり、カップアイスを二つ持ってレジへと持っていった。バニラとストロベリー。僕と久義君が好きな味。 久義君はアイスを買うと、そのまますぐにコンビニの外へと向かい、ゴミ箱の前でアイスの封を切った。バニラの方を僕に渡し、自分はストロベリーを一口食べ、美味しそうに顔を綻ばせた。 意味が分からない。 僕が呆然と突っ立っていると、久義君はきょとんとした顔で「食べて?」と言う。僕は促されるまま、思考回路が追いつかない状態で一口アイスを口に含んだ。僕が食べたのを確認すると、久義君は当然のような顔で僕にスプーンを差し出した。 「はい、」 「ありがと」 僕が差し出されたアイスを従順に食べると、久義君は嬉しそうに笑った。次いで、僕のアイスを見ながら言う。 「それ、一口ちょうだい」 「あ、ああ、うん」 スプーンで掬って久義君の口の中に入れる。途端、彼はぱあっと明るい笑みを浮かべて言った。 「これ! こーゆーのが出来なかったの!」 「……どういうことなの」 手の中にあるアイスが暑さでどろりと溶けた。 「何か、彼女と居るときはそんな気にならなかったって言うか。りっちゃんとアイス食べる方が楽しいのになあって思ったら、何かもうどうでもよくなっちゃって」 友達と居るほうが楽しいという感覚は分からなくもないけれど、だからと言って何も別れる必要はないだろう。 「彼女が居たらりっちゃんと帰れないし、彼女よりもりっちゃんと一緒にいたいから。やっぱ別れる」 すっきりしたような顔で言う久義君。僕は一つ溜息を吐くと、溶けたアイスを握り締めながら渾身の一撃をお見舞いした。ごんっと悲しい音と共にしゃがみ込む久義君。 「いったぁ……」 涙目で殴られた頭を押さえる彼を見下ろしながら、僕は呻くように文句を吐いた。 「僕の努力を全部無に返すような決断しやがって、恩を仇で返すってのはこういうことを言うんだなって今すごく実感してるよ」 「ごめんなさい……」 落ち込んだ様子で更に縮こまる久義君を眺めながら、怒りのやり場を探していると。 「でも、俺と一緒に帰れなくなって、律は寂しくなかった?」 涙目で見上げてくる久義君。 こういう時だけ名前で呼ぶなんて、本当にずるい奴。 縋るような視線に、僕は慌てて目を逸らして口早に言った。 「……寂しくないことは、ない、けど、」 曖昧な返事でも満足したのか、久義君は嬉しそうにへらっと笑った。その笑顔が何もかも見透かしているように思えて、面白くない。 僕は溶けたアイスを久義君の頭の上に置き、すたすたと歩き出した。背後で久義君が慌てている声が聞こえたけれど、構うもんか。僕の必死な努力に比べたら、溶けたアイスの処理ぐらい簡単なものだろう。 アイスでべたつく口内を、水筒のお茶を飲んでやり過ごし、背後から聞こえてくる規則正しい足音を全力で引き離そうと駆け出す。慌ててスピードを上げた背後の足音に、気付かれないようにくすりと笑った。 飽きない奴。
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