丘の上から見下ろす平原はどこまでも続いている。 よく晴れた秋の午前中。 東向きの窓辺は日が射して、暖炉の火なしでもぽかぽかと暖かく、 なおも眠り続けるベッドのニアの顔をわたしは見た。 ニアは静かに寝ていた。 静けさの中、寝息だけが聞こえる。 この平穏。 なんだか世界から取り残されているような気もするし、 逆に、あくせく働く世界から隔てられ保護されているようでもあり、 何もしていないことで不安になるくらいだったので、 私はキッチンに行って、お茶を入れるためにやかんで湯をわかした。 湯を沸かしたり茶器を用意したりする音で目を覚ましたのか、 トレイにお茶を乗せてベッドルームに戻ると、寝ぼけ眼のニアが出迎えてくれた、 と思った直後にこちらに倒れかかってきたので、わたしはとっさに身をかわした。 床に突っ伏したニアは、 「器用ですね…」 と恨めしげに言った。 「やめてよ。火傷するでしょ」とわたしが言うと、 「火傷は慣れっこです。おかげさまで」との返事。 「まだ酔ってるの?」 「確かに、昨日はちょっと飲みすぎましたね」 「だから言ったのに」 起き上がって茶器を受け取り、ゆっくりと顔を近づけて、「ユメのお茶だ」とニアは言った。 「やれやれ」 「まったく、やれやれです」 「日射しがあったかいよね」 「室内とはいえ、10月とは思えない陽気ですね」 「外は寒いかな」 「寒いでしょうね。私は中がいいです」 「わたしも」 「だるいです」 「今日くらいだらけても誰も文句は言わないよ」 「そのためにここに来ましたから」 「連れて来られたわたしから注文が一つ」 「当てます」 「お、チャレンジャー」 「『愛してほしい』」 「二日酔いなんじゃなかったの?」 「はい。ですので夜まで待ってください。夜になれば復活すると思います」 「求めてないと言えばウソになるけど、でもまあそれはどっちでも」 「そっけない…」 「だってわたしが言いたいのは、ニアにゆっくりしてほしいってことなんだもの」 「私はユメのために尽くしたいんですが」 「う〜ん」 「欲のない人だ」 「そんなことないよ。イングランドの田舎のお屋敷に泊まるの、ずっと憧れてたから、嬉しいよ、すっごくすっごく」 「私も、案外いいものだなと思いました」 「だね」 でも分かってる。わたしは知っている。ニアは難しいパズル、謎が好きだってこと。謎に挑み、解決の道筋を作り、自らの力を試すことが、大好きだってこと。でも、今の状況は、予定調和。 わたしはニアの仕事の役には立てない。だからせめて、仕事をするニアの生活の役に立ちたい。だから、予定調和。 ニアという人間のすべてになろうだなんて、思わない。交わるものがあれば、いい。つながる部分があれば、一緒にやっていける。たぶん。 「出会う前のユメの写真が見たいです」 二人でベッドに寝転んで日向ぼっこをしていたら、ニアがふいにそう言った。 わたしは悩んだ挙げ句、スマホの、アルバムとして使っているフォルダをニアに見せた。 「こんなに少ないんですか?」 一覧を一目で確認したニアが言った。 「撮ってくれる人があんまりいなかったから」とわたしは答えた。 「ふーむ」とニアは言って、今度はじっくり一枚一枚眺めていった。視覚情報をすぐにインプットできてしまうニアにしては、本当に長い時間をかけて、じっくりと見ていた。 なんだか居心地が悪くなって、わたしはニアからスマホを取り上げた。 「今日はもうこれで終わり」 「焦らしですか」 「そういうんじゃないよ。でもそんなに見せるものじゃないから」 「私は見たいんですが」 「ニアは人をじっと見すぎ」 「気をつけます」 「全然心のこもってない言い方」 「以後、気をつけます!」 「わ、急に大きい声出さないでよ」 「疲れた」 「無理するから」 「日本の学生アルバイトの真似です」 「わたしから話に聞いてるだけなのに驚異的なスピードで日本文化に精通してるよね」 「ユメもよくそんな環境で働けましたね」 「それなりに楽しかったよ」 「ならいいんです」 「その頃はニアと会えるなんて思ってなかったから、必死だったよ」 「私は、ユメを見かけた後、絶対に知り合いになると決めてました」 「もうすぐスイーツの準備をする時間かな」と言ってわたしはこちらを見つめるニアの視線に気づかない振りをしてベッドを出た。 「ユメ」 呼ばれたら知らんぷりもできなくて、わたしは振り返った。 「愛しています」 切なくなったわたしは、たぶん変な顔をしていたのだろう。ニアは言って口に出したことに満足したふうを装っていたけれど、それは装った仕草で、寝返りを打って向こうをむく印象が、どこか不自然だった。わたしの表情の変化を、わたしが自覚しないようにとの配慮かもしれない。 こちらが現実になればいいのに、わたしはそう思った。ニアとの平和な休暇。ニアがわたしだけを見ていてくれる時間。壁のほうを向いていても、それはわたしとの、わたしとニアとのふたりの城にいるときの行動。わたしは、この城を買ってしまいたいと思った。でもそんなことをしたら、非日常が日常に侵食されるだけ。だから、わたしは実行しない。 仮暮らし。 どこに居ても。 わたしはニアにくっついて、ニアを頼りに、ニアを頼って、あちこちに行くのだろう、これからも。 ニアにしがみついていれば、大丈夫。 「『大黒柱』って言葉があってね」 部屋に戻ってきたわたしはベッドのなかにいるニアにそう言ってみた。 「日本の古民家の中央で家全体を支える柱ですね」 ニアはこっちを向いて言った。 「うん、わたしも詳しくは由来を知らないけど、お父さんのことを指すこともあるの」 「ユメのお父さんの話はあまり聞いたことがなかったですね」 「日本にいるよ」 「私は実質、ユメの家族からユメを奪ってしまいました。ユメからは、家族を奪った」 「だって、わたしはニアといるのが幸せだから」 「もしかしたら、新しい、普通の幸せな家族を作ることも、諦めさせることになるかもしれない」 「わたし、家がほしい。ニアが帰って来て、わたしが帰る、家がほしい」 「策を考えましょう」 「わがままでごめん」 「構いません。さしあたり、まずはケーキを食べましょう」 「そうだね」 わたしはショートケーキを少しずつ食した。イギリスの生クリームは、おいしい。日本のより、ずっとおいしい。たぶん、窓の外で平和に草を食んでいる牛たちの生乳から作られた生クリームだ。そう思うと、なんだかありがたい。 土地に執着するのは、日本人の血だろうか? 本当は、好きな人と一緒なら、どこにいても幸せだと、そう信じることもできるはずだ。 幸福な土地がどこかにあると思い込むのは、人の犯しがちなミスだ。 ニアは、一生をかけて、わたしの思い込みを解いてくれるだろうか? 答えはもちろん、ノーだ。わたしが自分で真実に気づくほうが早いだろうから。 わたしは結局、ニアといれば、イングランドの片田舎の古城だろうと、ニューヨークはウォール街の高層ビルだろうと、日本の農家のちっぽけな古民家だろうと、幸せなのだ。 そしてそんな想像をわたしが繰り広げることはニアはとっくに承知している。 だからニアは、「これが現実です」と、わたしに言ってくれた。それから、ケーキをもぐもぐと食べた。 わたしはニアの唇についたクリームを指ですくいながら、「ちゃんと栄養あるものも食べてね。健康でいて」と言った。 「ユメが作ってくれるなら食べます」 ひとまず、ケーキを食べて満たされたら、わたしは料理の勉強に励むことにしよう。紅茶とケーキだけでは、生活は長く続かない。とはいえ『甘いはうまい』だから、料理の隠し味にみりんを多めに入れることなどを、試してみよう。わたしはそんなことを目論んだのだった。 『Not Only Cake & Tea』 20191015 back |