ウィンドブレーカーを着て正解だった。海沿いの町らしく冷たい海風が吹き荒れていた。 波は高く、狂おしい激情を辺りに撒き散らしていた。潮の匂いが強烈だった。 ニアも防寒用の服を着ていた。 眉をひそめているのは、寒いからではなく、他の何かのせいなのだろう。 わたしのせいではないと思う。 本当は、わたしのせいであってほしいのだけれど。 ニアに衝撃を与えたい。ニアの世界を知りたい。ニアともっと色んなことを共有したい。 たとえそれが、怒り、悲しみ、憎しみによって塗りたくられた感情であっても。 イギリス西の最果ての地は、色彩の乏しい景色をしていた。 生の歓びをグレーで上塗りしてすっかり抑制してしまったかのような。 ニアがわたしの腰を抱き寄せ、表情の読めない顔で、キスをくれた。 わたしの頬は赤くならなかった。火照るものはなかった。 薄闇のなかでわずかな灯りが際立つということを知っていて、わたしはこの場所に来たのだ。 ニアのわたしへの愛を、ニア本人にもっと強く意識してほしかった。 自己愛も確かにあるけれど、ニアの世界が少しでも明るくなればいいと、そう願ってのことだった。 情景にニアの気持ちが投影されて、外界に思いを解き放つことで、肩の荷が軽くなればと思ったのだ。 ニアの悲しみは深くて、わたし一人では受け止めきれない。 わたし一人で、ニアを支えきる自信はなかった。 「日本のドラマでこんな場面がありましたね」 「そう?」とわたしは答えた。 「暗い結末でした」 「どんなストーリーなの?」 「言いたくありません」 「きっとわたしは聞かないほうがいいのね」 「そう思います」 「ニアはそのドラマを好きだと思った?」 「いいえ。センチメンタルに過ぎると思いました」 「昭和の作品かもね」 「かもしれませんね」 「わたしが見たらタイムラグ感じるかな」 「タイムラグ感じると思いますよ。古い作品ですから」 「古い作品をどうしてニアが見ることになったの?」 「再放送してたのでたまたま見ました」 「時間が経っても、名作は名作だもんね」 「生き残った作品は、名作のことが多いんでしょうね」ニアは言った。「でも、生き残れなかった作品のなかにも、名作はある」 「そうだよね」 「そうですよ」 日が暮れてきて、空の色合いが変化してきていた。 濃くなりゆくグレーの空を映して、海は、しかし荒れたままだった。 世界は多義的なのだ。カオスなのだ。どこまでも、どこまでも、波の大元がわかりえないのと同じくらい、世界は難解なのだ。 わたしはふと気づいて、まくられていたニアの袖先を寒くないように整えてあげた。 ニアもお返しに、わたしのウィンドブレーカーの襟をちゃんと直してくれた。 強く生きていこうと思った。ニアのために。ニアが、わたしを強くしてくれるから。 矛盾している。 でもそんな矛盾した気持ちを抱きながらニアの隣で見る景色が、わたしはこの上なく好きなのだ、となんとなく自覚した。 「わたし、ニアといるときのわたしが好き」 「そうですか」 「うん」 「じゃあ、一緒にいましょうか」 「そうしましょう」 「悪くない」 「そうだね」 「はい」 「この海に太陽が沈むの、見たかったなあ」 「また来ればいいです。今度はよく晴れた日に」 「いつになるかなあ」 「たぶん何年か先ですね」 「待ちきれないよ」 「大丈夫です。私が迎えに来るのを辛抱強く待っていたユメなら、お茶の子さいさいでしょう」 「なんか偉そうな言い方でイヤ」 「待たせて悪かったと思ってます」 「あんまり放置すると生き霊になってニアのストーカーしちゃうからね」 「冗談でしょう」 「もちろん。そこまでニアにぞっこんじゃないよ。もうとっくに落ち着いてる」 「ならいいんです」 「やっぱりなんかむかつく」 「あらゆる人からそう言われます」 「知ってる」 「よく私といる気になりますね」 「ニアがわたしを求めるから」 「そうですか」 「なにその薄いリアクション」 「そろそろ帰りましょう」 「もしかして照れてるの?」 「照れてません」 「じゃあ顔見せて」 「タダでは見せません」 「対価は?」 「ユメが目をつむることです」 「なんかエッチなことしようとしてるでしょ」 「というのは、例えば?」 「言うわけないでしょ!」 「へえ。言えないようなこと考えたんですね」 「ほんと、性悪」 「ユメはもっとしおらしくなってもいいんじゃないですか。いつもみたいに」 「知らない」 話しているうちに、体がぽかぽかしてきたような気がした。 ニアがわたしの手をつかまえた。ニアの手も温かかった。 ウィンドブレーカーの中が、温もりで満たされていた。やっぱり、着てきて正解だったのだ。 空は暗く、波の音は荒々しかった。 ニアの悲しみも、別に消えたりしていないと思う。ニアの瞳は相変わらず暗いままだ。 でも、わたしたちは、悲しみに抗って生きることもできる。 悲しみを利用して幸福を際立たせることもできる。 できることは、たくさんある。 海風の中、波を背後にして、背中に大きな羽が生え広がったみたいだな、と思った。 そのときわたしは、生きていく勇気が満ちてくるのを感じていた。 Winds and Wings back |