ずっとお守りにしていた桜貝が割れた。 正確に言うと、割れていた。 気づかぬうちに、いつの間にか、割れていたのだ。 朝着替えたときは割れていなかったから、たぶん満員電車での通勤中に割れてしまったのだろう。 わたしは思い出す。あなたが桜貝をくれたときのことを。 わたしは当時から日本に憧れを抱いていた。 そしてまた、日本を象徴する桜、その名前を持つ桜貝にも、強く憧れていた。 日本土産です、と言ってあなたが手渡してくれた桜貝は、想像していたよりも遥かに繊細なつくりをしていて、 その儚い美しさに思わず涙が出そうになった。 桜貝の入った小瓶を持ったままうつむいたわたしの顔を、あなたは猫背をかがめて覗き込んだ。 わたしはあなたの体に手を回して「すごくきれい。ありがとう、L。きっと大切にする」と言った。 今思えば本当につたない言葉だけれど、その時は素直にそう言うことしかできなかった。 別にわたしに大人っぽさを求めていなかったあなたは、わたしをそっと引き離して、ただ困ったように頭をぼりぼり掻いて、 「もっと欲しければ日本に来るといいですよ」と言った。 「日本は遠いわ」とわたしは言った。 「飛行機ですぐですよ。寝てる間に着きます」 「Lが連れていってはくれないの?」 あなたは多少面倒くさそうにしながら「いつか機会があれば、ですね」と言った。 「いつかっていつ?」 「私に付いて来てはいけないと判断できるようになってからでしょうね…」 「それじゃあ、だめじゃない!」 「そういうことです」とLは言った。「まあ、でも、渡したのが割れたり無くしたりしたときは、言ってくれればまた新しいのを持ってきますよ」 「大事にするから、割れたり無くしたりしないと思うわ…」 じっさい桜貝はしばらく割れたり無くしたりしなかったけれど、あなたと会う機会はまたあった。 数年後、わたしはあなたにもらった桜貝をいくつか使ってネックレスを作り、それを身に付けてあなたに会った。 あなたはわたしを見てしばらくポカンとしていた。 「L! わたし、ユメよ。覚えてもらってるなんて、あんまり期待してないけど…」 あなたは呆けた表情のまま答えた。 「覚えてますよ。あなたのことは知っています。ただ、私の記憶しているユメとずいぶん印象が違うもので。もしかしてそれは桜貝ですか?」 「そう。あなたにもらった桜貝」 「似合ってます、とても」それからあなたはぽつりと言った。「ずいぶん変わったものだ」 それが桜貝に対してか、わたし自身に対してかはわからなかったけれど、おそらく両方だと思う。 それからあなたと特別な関係になるまでに、多くの時間はかからなかった。 ベッドの中で「日本の桜が見たいわ」とわたしが言ったら、「正直に言うと、私は桜があまり好きではありません。それに、桜をやたらに愛でる日本人の精神性も」とあなたは言った。 「そう? 千年以上も昔から桜は日本人に愛されてきたのよ。その伝統的な美意識は素晴らしいと思うわ。わたしはすごく好き。淡いものや、儚いものを美しいと思うのは、日本人の感性が細やかだからよ」 「そこがまさに、嫌いなんですよ」とあなたは言った。「なぜもっと不変さを強く求めていく気概を持てないのかと、苛立ちを感じます。それは豊かさではなく、弱さです」 「そうかな」 「そうです。ちなみに言うと、もらった桜貝を加工してアクセサリーを作ろうとするなんてのは、日本人離れした考えです。一般的な日本人はそんなことしません。あなたの行為は非常にヨーロッパ的です」 「だから面白いと思った?」 「いえ、それほどでも」 「ふん。嘘つき」 「きれいだと思いましたよ」 「あ、嘘つきって言われたから逆に本当のこと言ったでしょ」 「はい。そうです」 「きれいって、桜貝が? それともわたしが?」 「桜貝も何も身に付けていないユメが、きれいだと思いましたよ」 改めて言われると思った以上に恥ずかしくなった。 顔が火照るのを感じて布団の中に隠れようとしたら、あなたがそれを阻止しようとして、ふたりはもみくちゃになった。 そのようにして、わたしとLとを結びつけていた桜貝が、ついに割れた。 夢だった日本移住は果たしていたけれど、すでにわたしはLと疎遠になっていた。Lから離れていた。Lのライフワークに差し支えるから。 わたしはLの生活に入っていくことは、できなかった。 何度か会って、楽しい時間を過ごして、ほろ苦い切なさを味わって、少し泣いて、それで終わり、 なんてさっぱり忘れることはできなくて、いつまでも桜貝をメモラヴィリアとして持っていたのだけれど、 割れたときは、慌てるというよりも、頭が真っ白になって、何も考えられなかった。 Lに連絡をする気にはなれなかった。わたしはもう子どもではなかった。重い思いを抱えた一人の女としてLに会う勇気は、わたしにはなかった。というよりも、そもそも会うことは不可能だった。どのような手段によっても。 それからしばらく後、思い立って、東京近郊の海に行った。ある春の日のことだ。 見つかるかな、と思っていた桜貝は、砂浜にあった。それもたくさん。まるで桜吹雪が降ったみたいに。 感傷と混乱が押し寄せて、わたしは裸足になって、桜貝の散らばる浜辺を歩いた。 たくさんの桜貝をわたしの足が踏みつぶした。 足の裏は痛くはなかった。わたしの足は痛まなかった。痛んだのは胸の奥だった。でも、混乱のせいで、悲しみの類いの感情がうまく感じられなかった。 わたしは水平線の向こうを見た。春の優しい日射しに海がきれいに輝いていた。 Lなしの日々の先に、何があると言うのだろう、とわたしは思った。 わたしは胸にぶら下げていた桜貝のネックレスを取り出した。 割れてしまったのは先代のものだ。今わたしの手にあるのは、割れてしまったあと、Lが送ってきてくれた桜貝だ。 海に行こうと思い立ったのは、Lから桜貝が送られてきたからだった。 Lは自分の死んだあと、桜貝が定期的にわたしの元に届くよう、手配していたらしい。 同封されていた手紙に、「…歳の誕生日おめでとうございます。これから毎年、ユメの好きだった桜貝を送ります。もし不都合があれば、下記の連絡先まで。届けるのを止めます」とあった。 わたしは書いてあった連絡先に電話をかけてみた。たぶんLの声は聞けないだろうと思った。伝言ができるなら、言いたいことがあった。山ほど。でも実際には一言しか言わなかった。電話が通じると自動音声が流れてきた。「メッセージをどうぞ」 「これっきりにして」とわたしは言った。それからメッセージ終了の数字を押した。 すると「承りました」と聞こえた。 それはLの声だった。 最後に聞いたのと変わらない、Lの声だった。 それから、電話が切れた。 わたしは知っていた。Lがすでにこの世にいないことを。 そんなことがあったあとで、わたしは新しい桜貝をネックレスにして、それから電車を乗り継いで海へと出かけたのだ。 初めはLへの恨みがあった。愛しさと同じだけ、恨みもあった。Lへの恨みから、浜辺に打ち寄せられた桜貝を砕いた。目一杯踏みつけた。 次第にむなしさを感じ始めて、それからぼーっと海を眺めた。 これからもLなしの日々は続く。 海のきらきら輝くようすを見ながら、優しい波音を聞いていたら、憎しみさえ抱きそうだった気持ちが凪いで、その分Lを愛していた記憶がよみがえってきた。 春の淡さと同じように、思い出の日々は儚げだった。 儚げだから、悲しかった。悲しくて、いとおしかった。 Lがいとおしいのか、桜貝がいとおしいのか、愛された日々がいとおしいのか、だんだんよくわからなくなっていった。 しばらく波打ち際に立ち尽くしていた。 わたしはおもむろに桜貝のネックレスを外した。それを見つめて、そして海に投げた。 最後の瞬間、桜貝は日射しを受けて光って、波のなかに消えた。 いいわ、Lが仕組んだ通りにしよう、とわたしは思った。 自分を憎んで、早く忘れるようにというLの計らいを、わたしは甘んじて受け入れよう。 最後にLの優しさに気づけてよかった、とも思った。 さよなら、と声に出したら、海が答えた気がした。Lの意志だろうか、なんて思って、わたしは少し笑って、その場をあとにした。 back |