真夜中、東京、マンションの一室。キンモクセイの匂いが部屋じゅうに漂っている。ニアのそばにいたときには、しなかった匂い、ニアのそばにいたときにはなかなか吸えなかった外の空気を、わたしは胸一杯に吸い込んだ。

 ニアとは会えない訳じゃない。たまにビルの部屋や街中で時間を過ごすこともある。散歩でもしながらニアに電話しよう。わたしは外に出てから、携帯でニアに連絡を取る。ニアの声が聞こえる。「もしもし」

 「ニア、起きてた?」

 「起きてましたよ」

 「ねえ、わたし今とっても気分がいいの」

 「そうですか。それはよかったです」

 「つれない!」

 「こちらは今ちょうど捜査が煮詰まっていたところだったんですよ」

 「それなら尚更、外に出ない? 秋の初めの匂いがするよ」

 「ああ、この時季はキンモクセイでしたっけ。あなたも好きですね。毎年飽きませんか」

 「飽きないよ! ハウス時代の頃の思い出とか、一気に思い出すの。懐かしいことばっかり。あの頃も幸せだったなぁって。感慨深さは年々増してるよ」

 「年増みたいなことを」

 「なによう! 失礼ね!」

 「プリプリ怒る、いくつになってもプリティなユメさんに朗報です」

 「なにそれ、おかしいね」思わぬギャグについ笑ってしまう。

 「幼年時代が充実していた人ほど、後々老けにくいそうですよ」

 「そうなの!? なら安心だね。ニアもだね」

 「私は男性ですよ。老けたってかまわないでしょう。というか私は実際より年上に見られたいくらいですよ。姿を現さなければならないときに、この容姿だと多少なりとも舐められるんですよ」

 ニアが自分の弱いところをさらけ出してくれると、わたしはちょっとうれしい。「あはは! いいじゃない。ニアも昔と比べたら大人っぽくなったよ?」

 「昔の私ですか」

 「そうそう」

 「まあ、そうかもしれませんね」

 「気にしない、気にしない!」

 「私は昔から籠もり気味でしたね」

 「うん。そうだね」

 「少し、今日は外に出ましょうか」

 「えっ、ほんと!?」

 「キンモクセイの匂いでもかぎながら昔を振り返ることも、まあ悪くはないです」

 「おいで! 待ってる!」

 「どこですか」

 「C……通り」

 「すぐに向かいます」と言ってニアは電話を切った。

 わたしは携帯をポケットにしまい、通りのベンチに座ってニアを待った。

 ふわりと別の香りがして振り返ると、ニアがうしろに立っていた。

 わたしはニアの服に鼻を近づける。「ニアの匂いがする」

 「自分ではわかりません」とニアは言った。「それに、キンモクセイの匂いってこんなに強かったんですね。記憶していた以上です」

 「部屋に帰る頃には、ニアのいつもの匂いじゃなくなって、キンモクセイの匂いが染み着いてるかもね」

 「かもしれませんね」

 わたしたちはどちらからともなく手を取り合って、ひと気のない深夜の通りを歩いた。ふたりだけの時間。大きく吸い込むと、ニアとキンモクセイの匂いがした。ひとりでいるときとは違う、特別な匂いだ。キンモクセイにまつわるニアとの思い出がまた一つ増えた、とわたしはそっと微笑んだのだった。


オレンジ・ダイアリー
2016.9.28






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