猛暑の終わりのしつこい長い雨のあいまに空晴れわたる日がおとずれて、わたしは教会に足を運んでいた。 さわやかな秋の空気を胸一杯に深呼吸すると、身体じゅうがどことなく衣替えしたような一新した気持ちになった。 わたしは清々しい思いで教会に入り、木製の椅子に腰掛けた。椅子の背もたれの軋む音だけが堂内に響く。ステンドグラスの窓からは色とりどりの光が射し込んでいる。 わたしは胸の前で十字架を切って、祈りを捧げた。簡素な祈りだ。それほど複雑な内容の思いは述べない。ただ単に、今日もこの穏やかさを享受できたことを、簡潔に神に感謝するだけだ。 神が本当にいるなどと、わたしは考えていない。ただ、人間は神と呼ぶべき存在を持っていた方が最終的には得をするということは確かだと思っている。人間はなにかを神と名付け時折その名前を呼ぶべきなのだ。 こういう考えが教会の神父に受け入れられるはずもない。わたしには特段すべてをわかり合いたいと思える相手がいるわけではないので、そういった神学的な議論は誰とも交わさない。ただ心の内で時々自分なりの感謝を「神」に述べるだけで十分幸せに思えるのだ。 麗らかな秋の日だった。日差しが鮮やかにやさしすぎて切ないほどで、胸がほんの少し苦しくなった。刹那的な色々な物事をいとおしく思う気持ちがいっそう増すような、そんな陽気だった。 わたしは教会の裏手にある墓地に出た。 わたしはある石碑の前で足を止めた。膝を付くと、足下に咲いている小さな黄色い名前も知らない花を切って墓石の前に添えた。 Mihael=Keehl。石碑にはメロの本名が刻まれている。 わたしは空を仰いだ。さやさやと風が渡り、雲雀がフライトソングを歌っている。麗らかな秋の日。 あの日、メロが他界したのを教えてくれたのは、わたしたちと同じくワイミーズハウス出身のニアだった。 ニアはメロの身体の回収まで手配してくれた。 「メロが死にました」と機械のように抑揚のない声でニアは言った。わたしとメロがハウス内でも特に親しい仲だったことをニアも知っていた。 「遺体はワイミーズハウスのロジャーが近隣の墓地に埋葬してくれるそうです」 わたしは突然の告知になにも言うことができなくなった。「ユメ?」わずかに心配の色をにじませてニアが言った声が頭のなかでリフレインした。メロが死にました。メロが死にました。 わたしは小さな花を取って顔に近づけてみた。柔和でほがらかな姿だった。まるで幼い頃のわたしたちのようだ、とわたしは思った。頼りなくて、それでも守られていた、あの頃。 わたしはメロの眠る墓地を後にした。 その翌日わたしは夢を見た。メロがわたしに何かを大声で訴えていた。大声で、というのは身振りからそう判断したのであって、声を聞いてそう思ったのではない。声は聞こえなかった。ただ必死に何かを伝えようとするメロのせっぱ詰まった表情が印象的だった。それはいつか周囲から隠れて抱き合ったときの彼の表情に似ていた。彼? 彼って誰だっけ? あの彼も同じような表情をしていたし、また別のあの彼だってそう違わない顔つきでわたしを抱いた。一体わたしが見たのは、どの彼だ? どの彼にわたしは心身を許したんだっけ? メロの声がそこでわたしの耳に届いた。メロはわたしの腕をとらえて、自分の方へ引き寄せた。とたんに、大きく見開かれたメロの目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれてきた。 メロ泣かないで、とわたしは言った。それから嗚咽するメロの身体を抱きしめた。そうすると次第にメロのしゃくりあげる動作は収まった。 また歩こうよ、いつかみたいに。 そうわたしは言うと、メロは驚いたがすぐにうれしそうな顔になった。わたしの手を捕まえて、走っていった。 そこはいつのまにか砂浜だった。やさしく打ち寄せる波が揺れ、時折振り返るメロのきれいな金髪もさらさらと揺れた。美しい景色だった。いつまでもこうしていたいとわたしは思った。 目が覚めると、わたしは研究室のソファでうたたねをしていたところだった。本棚に囲まれた部屋で、机の上はコンピューターと分厚い古書、それから山積みになった書類で埋まっていた。 考古学入門T、と書かれた受け持ちの生徒のプリントに目をやり、わたしはため息をついた。また夢の中で現実逃避をしていたのだ。 今日はニアと郊外で会う約束をしている。郊外というのはわたしたちのウィンチェスターのことだ。わたしはウィンチェスターに住み、ロンドンの大学に勤めている。ここロンドンからウィンチェスターまでは一時間ほどで行ける。ふたりで過ごすのは数時間の予定だ。 あのニアと会って主にすることと言えば、ふたりでワイミーズハウスに顔を出して子どもたちと交流することだろうか。いままでも何度かふたりで会っているが、何となく気まずさもあってハウスの子どもたちの力を借りることになる。わたしたちは何しろふたりとも他人と打ち解けるのに時間がかかるのだ。お互いにそんなふうなのだから、本気でくつろぎあえる関係になるにはほど遠い。それでも会うのに緊張しにくくなってきたのは進歩だろう。メロがいたらおまえらは一体なんなんだと突っ込まれているに違いない。 メロがいたら、と考えることに抵抗を感じなくなってきてもうだいぶ経つ。ニアとのあいだでユーモア混じりにメロの話が出ることも増えてきた。わたしたちはもうすっかりメロのいない世界のあり方に馴染んでしまっている。 しかしそれとなくニアとふたりで教会を行くのは避けていた。それはニアが悲しむ姿を見たくなかったせいかもしれないし、自分が物思いに耽るのを見せたくなかったからかもしれないし、あるいはその両方かもしれない。ああ、今日もわたしたちはあれこれと考える。メロはもういなくて、あれこれ考えを巡らすことももうないというのに。 わたしは辛気くさい考えを頭から追い出して、ニアと会うためにウィンチェスター行きの列車に乗った。車窓の風景は次第に田舎らしくなってゆく。 駅を出てワイミーズハウス方面へと向かう道中で、ニアに声をかけられた。ロジャーが運転する車の後部座席からわたしを見上げている。その顔を見て、苦労してるんじゃないかな、また少し大人になったかな、とわたしは思った。ニアは会う度に顔つきが精悍になる。この歳で大人になるという言い方はいかがなものかと思われるかもしれないが、実際どこか幼さの残るニアには大人になるという表現が適切に感じられるのだから仕方ない。 「あなたは本当に不思議な歳の重ね方をする」と、ニアのほうも隣に座ったわたしに対して似たようなことを考えたらしいことにわたしは驚いた。「いつ会ってもあの頃のみずみずしい印象のままです」 「ありがとう、ニアこそ」とわたしが言うと、ニアはもそもそと何か言って、黙ってしまった。 「健康そうに見えるか? ニアがまともな食生活をしてくれないので、私としては困っていたんだ」続かない会話の切れ間に、運転席に座るロジャーが口を挟んだ。彼もまたあまりおしゃべりな人ではない。一言だけ言って、わたしたちの出方をうかがっている。 そうなの、とニアに聞くと、あまり食欲が湧かないんですよ、との答えだった。 「料理上手な人を雇えばいいじゃない」とわたしは言ってみた。 「口の堅い優秀なコックをいちいち常駐させるのが面倒なんですよ」とニア。「私はさほど食事にはこだわらないほうですから」 「いっそユメが大学の教授の職から退いて、私とニアの補佐をしてくれたらこの上なくよさそうなんだが」とロジャー。 「それ、どういう意味、ロジャー」目を細めながらわたしは言った。 「ユメがつくる食事も、私なら文句は言いませんよ」とニアも言ってくれた。「とはいえ、ユメは今の職に楽しんで務めているようですから、ロジャーの案は論外です。ありえません」 「案外、ニアの仕事を助けるのも、性に合っているかもしれない」とロジャー。 「どういう目をしているのよ、ロジャー」幼い批判的な独立心に似た感覚を覚えながら、わたしはロジャーに言った。「ニアのLとしての仕事を支えるような厳格な業務をわたしがこなせるわけがないわ。ただでさえ今の職の雑用には辟易させられているのよ。もちろん、全体としてはありがたいことに楽しく務めさせてもらっているけれどね」 「そうか」とロジャー。 「教会まではどれくらいかかる?」とロジャーにニアは聞いた。 わたしは突然の言葉に思わず聞き返していた。「教会? 教会に行くの?」 「というか、墓地にですね」とニアは言った。「墓地に眠る人たちに、しばらく挨拶もできずにいましたから。久しぶりにこちらに来れたところで、祈っておきたいなと思っていたんです」 「わたし、つい先日訪れたばかりだわ」とわたしは言った。「行くなら、同行させてもらうけれど、どうする?」 「では、ついてきてもらいましょう」とニアは言った。「慣れているユメがいてくれたほうが、祈りがスムーズです」 そういうわけで、わたしは再びメロのいる墓地に立っていた。今日も雲雀が空高く鳴いている。 ニアはその辺で適当に花を引っこ抜くと、墓の前に添えた。 秋風が爽快に吹きわたると、芝が緑色のさざ波をつくった。わたしは髪を耳にかけ直した。それから夢の中でメロと海岸を走って追いかけ合ったことを思い出した。 「メロ、久しぶりです」 ニアがそう言った。俯いているので表情は見えない。 「チョコ、置いておきますね」 ニアはまにまにそう言って、ポケットからチョコレートを取り出した。ひとかけら取ってメロの墓石の前に置くと、残った分は自分でパキパキと歯で割りながら食べた。 「メロの影響でチョコレートを始めましたが、最近は食べていませんでした。体重が増えたからです。ドクターストップもかかりました。でも、もう体調も落ち着いてきたので、食べています。久しぶりに食べるならメロといっしょにと、かねがね考えていたんです」 ニアがチョコを食べる音が墓地に軽やかに響く。 「ニア、わたしにもちょうだい」とわたしは言ってみた。 ニアはわたしに残った半分を割って手渡してくれた。わたしはそれをそのまま口に入れた。溶けていく甘い香り。ロジャーまで自分のポケットに備えていたチョコレートを取り出して食べた。大の大人が三人突っ立って墓地でチョコを食べている。なかなか異様な光景だろう、とわたしは思った。メロが見ていたら絶対に呆れてバカにしている。 「ちなみにメロは知っていますよね、ユメがいまだ独身だということを」 ニアがおもむろにそう言ったので、わたしは思わず口の中で溶けたチョコを吹き出しそうになった。わたしはハンカチを取り出して口を拭った。言い返したいことは山ほどあったが、口の中にまだチョコが残っていて話せない。 「ユメは年齢の割に若く見えますから、モテるはずです。でも、結婚できない。内面的になにか問題がある、いえなにかしらの闇を抱えているとしか思えません」 よく本人の前でそんなこと言えるわね、と言ってやりたくなったが、メロの手前大人しくしていた。 「その責任の一端をメロも担っているはずです。どうにかしてください」 「ニア」 わたしはついニアの頭に手をふりかざして下ろしたが、ニアは意外なほど器用にそれをよけた。わたしはますます顔を熱くした。その横でニアは言葉を続けた。 「メロがユメを手放したということが定かでないと、誰も手を出せません」 ん? わたしの頭の中は疑問で埋め尽くされた。 「それともユメはメロを諦めたんですか? メロはどう思いますか?」 「えっと、ニア」 「はい」ニアは振り返って言った。「ご当人の口から聞けますか」 「あのね、わたしが結婚しないのはメロのせいじゃないよ」 「そうですか。ユメはそう思うんですか」 「そう思ってるよ。単にいい出会いに恵まれていないだけ」 「ならいいんです」と言ってニアはメロの墓石に視線を戻した。「メロ、そういうことでした。疑ってすみません」 そういうとぼけたところがかつてのメロを激昂させたんだよね、と呆れながらわたしは思った。 「メロもいい歳になるんだし、もうとっくに向こうでお嫁さんをつくっているかもしれないよ」とわたしはニアに言ってみた。 「はい。確かにそれもそうですね。何かと私の杞憂だったようです」 「今日はこのあと、ワイミーズハウスに行く?」 「いえ、今日はやめましょう。あそこは雰囲気が適切ではありません。予定変更です」 「予定? 予定ってどんな?」 「ユメはわからなくていいです」ニアはパンパンとチョコの欠片を払いながら言った。甘い香りが辺りに漂っていたが、すぐに風に流されていった。 「このあとは、どうする?」 「お茶でもしましょうか」とニアは言った。 「カフェに行く?」 「そうしましょう。ロジャー、車は使っていいですね?」 「もちろん。あとで迎えにあがろう」とロジャーは二つ返事で答えた。 「では、行きましょうか、ユメ」 ふいに甘い香りがした。メロにあげたチョコの香りだった。わたしは立ち去りがたくなって、でもニアについていかなければならなくて、さっとメロの墓石に駆け寄ると、一つキスを落とした。 車に乗る際、わたしはメロの墓石を振り返り見た。秋の日の雲の切れ間から優しく明るい太陽に照らし出されて、どことなく現実離れした空気が流れていた。わたしはその雰囲気に後押しされて、ニアに言った。 「ニア、カフェってここからすぐのところのよね?」 「はい。そうですが……」 「先に行ってて」とわたしは言った。「わたしは歩いていく。追いかけるから。そう遅くはならないと思う」 「わかりました」とニアは言って、ロジャーとともに車を走らせていった。 車が見えなくなると、わたしはふたたびメロの眠る場所へと行って、しゃがみ込んでいた。それから少しだけ苦しくなった胸の痛みを軽くするために、何度か大きく深呼吸した。 空を仰ぐと、雲の切れ方に秋のさわやかな風を感じた。 メロの墓石の前に置かれたチョコを手に取ると、ひとりでパキパキ食べた。 チョコの付いた口をぬぐいかけて、わたしは手を止めた。汚れたままの口で、メロの眠る場所に口づけた。そして誓った。メロ、あなたが本来生きるはずだった分まで、強く生きてみせる。強く生きてみせるよ。そうメロに誓った。 ニアは強い人だ、とわたしは思った。わたしもニアと同じくらい強く生きてみせる。 「見守っていてね」とわたしはメロに言った。秋風が肌に触れて、ほんの少しだけ寂しい秋の夕暮れになった。 秋麗 2016.9.25 back |